島之内教会たより -2009年3月第4号発行-

「本当に、この人は神の子だった」マルコ15:21−47

牧師 大門義和

祭司長や律法学者たちは、主イエスの罪や非を責めたのではありません。主イエスの存在そのものを殺そうとしました。律法は人の罪を裁くのであって、その人の存在、人格を否定することは許されていません。ですから、ファリサイ派の人々や祭司や律法学者たちは群集を扇動して偽証させようとしました。

私たちも、人を判決のように決めつけないようにしなければなりません。あの人は信用できないと全面的に否定することは許されない罪です。あの人のあの意見には同意できないと意見の否定は許されても、人格の否定は許されません。それは、主イエスを十字架にかけたファリサイ派の人々や祭司や律法学者たちと同じ罪を犯すことであり、神様に敵対する姿です。

総督ピラトも祭司長らに利用されました。ルカ福音書23:14を見ますと、ピラトは「私はあなたたちの前で取り調べたが、訴えるような犯罪はこの男には何も見つからなかった」と認め、釈放しようとしますが、群衆の「その男を殺せ。バラバを釈放せよ」との叫びにピラトは負けてしまいます。マタイ27:19以下ではピラトの奥さんが「あの正しい人に関係しないで下さい」と忠告しています。

しかし、ピラトの名前は今日まで、使徒信条の中で、「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ・・・」とキリスト者は告白し、ピラトの名前を忘れることはありません。人の悪意に利用されないように言動には責任を持たなければなりません。知恵らる人に利用されて、弱い無実の人を苦しめる誘惑に合わないように祈りましょう。

逆にシモン(マタイ福音書27:32以下)のように、無理に十字架を担がされて、歴史にその名を残人もいます。身に覚えのない誹謗、中傷、悪口等の悲しい辛い体験をする時に、無理やりに十字架を背負わされたシモンを想起しましょう。シモンを身近に感じ、不条理を覚える時、主の十字架と共に歩んでいると確信し、お互いに祈り合って忍耐しましょう。主イエスを間近に感じられることでしょう。

主イエスは十字架上で、「エリ、エリ、レマ、サバクタ」(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)と大声で叫ばれて息を引き取られました。これは、神様から私たちへの「なぜお前たちは私を見捨てるのか」との神様の嘆きのことばでもあると思います。ファリサイ派の人々や祭司や律法学者たちがどんなに敬虔そうに神様の名を語っても、彼らは自分が自分たちの社会の中心であり続けたかったのです。それで、主イエスをこの社会から、この世から締め出してしまったのです。それが教会も含めた人間の歴史です。

主イエスが十字架にかけられる時、近くにいて見つめていたのは「ガリラヤから主イエスに従ってきた人々です。マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベタイの子らの母たちだけです。彼女たちは墓までも着いて行きました。男たちはとっくに逃げ去ってしまいました。信仰に生きるとはマグダラのマリアのようにどこまでも主イエスの側にいて生きることです。私たちにとっては御言葉と共に生きることです。自分にとってどんな利益があるかを考えて生きることではありません。主イエスのために何が出来るかを考えることです。十字架の主イエスに対して何が出来るか、墓に葬られた主イエスに対して何ができるか。マグダラのマリアたちはただただ十字架の主イエスを見つめるだけでした。納められた墓を見つめるだけでした。それが信仰です。単純に主イエスと向き合って生きることが信仰です。そのような人がいるところが主の教会です。

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伝道師招聘の恵み

中尾勉伝道師

「まことに、主がこの場所におられるのに、私は知らなかった。ここは何と畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ。」 創世記25;16−17

2009年2月1日の臨時教会総会において、伝道師招聘を承認していただきました。さらに、3月8日の新旧合同執事会においては、牧師館での「間借り」を認めていただきました。神さまの恵みを心から感謝します。何という神さまのみ業の偉大なることでしょう。こんな憐れな罪人の私に、恵みに恵みを増し加えて下さるのです。こんなにも惨めで愚かな私を、豊かな愛で満たして下さるのです。恐れるばかりです。震えおののきます。畏敬の念が私をとらえるのです。どうぞ、神さまのご計画の成すがままに私を導いて下さい。思い起こせば、神さまの導きは2005年の沖縄在住の時、「沖縄アシュラム」においての大門義和牧師との出会いから始まっていたことです。2006年―2007年の私は、「風韻」のお便りに支えられて荒れ野の旅路を歩んでいました。2008年の愛知県在住の時、風韻の記事の中に「愛知一日アシュラム」奉仕者、大門義和牧師と記されているのを発見しました。なつかしさと共に「静聴と祈り」を献げたくなりました。早速、5月17日の参加、出席をバプテスト名古屋教会に申し込みました。そしてここから神さまの驚くばかりの恵みが先行していくのです。それは2008年7月13日の島之内教会の礼拝への招きなのです。神さまの為さることは、人の思いもよらぬことです。主の計画が進みに進み行くのです。私のような小さき者、貧しき者に主の慈しみと憐れみを降り注いでくださるのです。大門先生を通して働いておられる主のみこころが成就していきます。執事の方たちを通して主の慰めが私を平安にして下さるのです。聖霊なる神さま、私を聖別し、きよめて下さい。そして、あなたの御手でもって導いて下さい。2009年2月、私は島之内教会の肢体とされました。教会員の一人一人に「仕える」ために、主が私を島之内教会へと導いて下さいました。洗足の主イエスにならいます。どうぞ私を教会の僕として用いてください。

「弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない。弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である。」 マタイ10;24−25

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「男性会」を始めました。

招集者 黒田正純

第三日曜日の午後、女性会が持たれていましたが、男性会の集まりは、開店休業の状態で開かれることはありませんでした。3月15日(日)準備会をへて、第一回の集まりを3月22日(日)午後、7人の出席者で始めました。大門牧師が書かれた「みことばのままに」の1主題を読んで話し合う時間といたしました。4ページ「御言葉に聴従する生活を」を第1回の宿題としました。最初に初題者が10分間程度の感想を発表、その後、出席者の話し合いがありました。皆さん、60年以上の人生経験の持ち主ですから、それぞれ味わいのある意見が聴かれたと思います。瞬く間に時間が過ぎました。へんに遠慮をすることなく、お互いの意見を発表し合って、学びを積み重ねることが出来ればと願っています。若い男性の方も遠慮されずにお出でください。明日への元気に繋がる心のヒントに気づく、そういう話し合いであればと思っています。

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編集後記

黒田・岩木

島之内だより第4号をお届けします。皆さんの原稿で紙面をうめたいので、何か書いて戴ければありがたいです。原稿を集めるのに苦労しています。受難週が近づきました。50年前、20歳になっていなかった頃、モノクロの映画「アンネの日記」を観ました。その後、しばらくしてフランクルのアウシュビッツの「夜と霧」を読み彼らの苦しみに沿い、苦しみを生き抜く実存に共感しました。その頃、厳しい状況を生きていた私に大きな示唆を与えてくれました。そして聖書とイエスに出会いました。ユダヤ民族の「苦しみと恵み」の説き明かしは紀元前からの長い歴史ですが、それが私にとっても珠玉の説き明かしになりました。イエス・キリストの受難週は、本当に意義深く私たちにもその受難を追体験する一日一日になります。昨年9月のリーマン以後は、私の経験則にない急激な景気変動ですが、気に病むのでなく考え動き、祈りの毎日を現役で生きています。

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