島之内教会たより -2009年9月第6号発行-

「孤独の中での信仰」

牧師 大門義和

英語で「孤独」を表す言葉が二つある。一人ぼっちの「ロンリー」と、音楽家などに使うソリストと同じ語源の「ソリチュード」である。ソリストとして一人で立つためには、何百回、何千回の孤独な練習が必要である。すなわち、多くの失敗経験を通して人は自立(自律)できる。失敗のない成功などはありえない。失敗、寂しさ、孤独、不安、恐れなどの苦しい経験を経て人は自立(自律)できる。

戦後の子育ては、親も子供も失敗や孤独や苦しい体験を悪いことのように避けてきた。だから、大人になっても自立(自律)できない。困難に立ち向かうことができない。想定外の小さな困難に出会うと全てを悲観的にしか見られず、体も心も病気になってしまう。

それは信仰の世界でも同じです。信仰生活の中で何度も何度も失敗を繰り返す体験が大切です。朝起きたら、先ず聖書を開いて、神様の御声を聞こうと決心しても、朝が来ると平然と、先ず新聞を開く「私」がいる。決心しても決心しても崩れてしまう。そして、落ち込んでしまう。失敗を恐れて、私たちは決心をしない知恵がつく。しかし、決心しない信仰は、聖書についての知識のお披露目、自慢話で終わってしまう。神様に聴従する決心をしたら、聖書についての知識の知的な遊びの無意味さ、むなしさに気づかされる。自分の不信仰さに気づかされる。信仰とは、人に自慢したり、誇ることではない。神様の前で「ごめんなさい」としか言えない自分に気づくことである。

信仰とは、ルカ福音書18章の「ファリサイ派の人々と徴税人」のたとえの徴税人の祈りに行きつくことである。すなわち、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」(ルカ18:13)との祈りが心の底から湧き出てくることが信仰である。また、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」との祈りに辿り着くことが人間の最高の知恵である。

明治以来、日本の教会は聖書についての知識を見せ合い、誇りにしてきた。それは人に褒められ、人を感心させようとしているのであって、神様の前での信仰ではない。人間の本当の知恵は、人の前で自慢できることではない。「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と祈れる人間になることである。

信仰と不信仰を分けて、信仰だけを選び出しても、その中にも信仰と不信仰が混ざり合っている。私たちの信仰はどこまで行っても、不信仰の中での信仰なのである。どんなに信仰深く、純粋な信仰だけを選びとってとしても、それは不信仰の中の信仰、罪の中での信仰であることを忘れてはならない。

弱さや不信仰を自覚して、考える前に、行動する前に、語る前に、あの少年サムエルのように、「主よ、お話しください。僕は聞いております」(サムエル記上3:9)と静まって、御言葉に聴き、祈る姿勢が信仰の基本である。

創造者なる神様の私たちへの約束は「私はあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す」(イザヤ書46:4)である。人生には冷たい冬もある、絶望的な闇もある、暴風雨の時もある。しかし、私たちの人生の最後は神様の祝福である。ラザロが病気になった時、主イエスは「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである』(ヨハネ福音書11:4)と教えられた。私たちの人生のすべての喜怒哀楽は「神の栄光」のためなのである。

私たちの現実は毎年自殺者が3万人を超えている。それらの人々は自らの人生での経験と知恵で考えに考えて、唯一残された道が自らの死であったのかもしれない。しかし、私たちの人生は私たちの知恵と経験で切り開く必要はない。

 

目の前の困難に対して、創造者なる神様の「わたしが担い、背負い、救い出す」との祝福の約束を固く信じて、人生を切り開きましょう。

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わたしが、ここにおります。わたしを遣わしてください。

中尾勉伝道師

1998、5、31 ペンテコステ、私は、沖縄の首里教会にて洗礼を受けました。2009、5、31聖霊降臨日、私は大阪の島之内教会にて伝道師として歩み始めました。2009、5、17復活節第6主日、伝道師就任式・勧告「耐え忍んであなたの走るべき行程を走り抜き、良きしもべとして主に栄光を帰する者となりなさい。」との式文は、受洗の時にいただいた「信徒必携」に祝受洗として記されているヘブライ人への手紙12:1〜2の御言葉を思い出しました。御言葉と聖霊典によって主が私を捕らえてくださいましたたことを心から感謝します。

「信仰の創始者または完成者であるイエスを見つめながら」伝道師として歩み続けることができますようにと祈ります。まことの牧者の心をお与えください。忠実に熱心にその働きをなすことができますように聖霊の賜物で満たしてくださいと祈ります。

私はまだこれからも苦しみの谷を歩く生活をしなければならない。疲れ果てた自己をかなぐり捨てて、神に近づこうとすればするほど、神は後方へ後方へと後退してゆかれる。ついには「無」に至るまで退かれる。その時の私のやるせなさ、やるせない心の虚しさ、その虚無感の中にとことんまでし沈み込み、落ち込んでしまう。しかし、この究極の地点において魂の奥底の、奥の闇の中にひとすじの光にひらめく一瞬の光を経験するのです。

主をほめたたえることと働くこと、祈ることと格闘すること、キリスト者として生かされていることと伝道師として用いてくださること、今、神様はまことに、まことに現実的なお方であることを告白します。どうぞ主の御業をなすための道具として私を用いて下さいますようにと祈ります。 「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は地をすべて覆う」(イザヤ6・3)。

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「みこばのままに」大門義和著を読んで 祈りの祭壇を築こう10―11頁

川島信一

教会の月一回の男子会で大門牧師の「みことばのままに」の本を、を一項づつ読んでいます。たった2頁ですが内容は一杯です。輪読しあと皆で感想を出し合い自由に話し合います。 一人でも参加者が多いほどいろんな意見が出て会が面白くなります。あなたも参加しませんか。

6月21日は「祈りの祭壇を築こう」10-11Pでした。その中に「神様の御心に従って信仰に生きることは不安がなくなることではありません。信仰に生きるとは『祭壇を築き、主の名を呼びながら、主と共に歩む(創世記12:7-8)ことなのです。』とありました。私の日常は不安で一杯です、その不安に押しつぶされそうになっています。この箇所を読んでホッとしました。人は不安があっても、悩みがあっても当たり前なんだと。 しかし、不安は残り、悩みは続きます。

わたしはよく、賛美歌U―210を寝る時に口ずさみます。「わが悩み知りたもう、そは主イエスのみ、わが悩み知りたもう、主に栄光あれ。この世の悩みは、おお主よ、 わが身にせまりて、おお主よ、行く手は知らねど、おお主よ、主は知りたまえり、おお主よ。」

しかし、わたしの本当に歌えるのは「行く手は知らねど」までで、「主は知りたまえり おぉ主よ」とは、なかなか心の底から歌えません。

章の終わりのほうに、「アブラハムの偉さは『最初に祭壇を築いた所に立ち帰る勇気』をもっていたことです。」と書いてあります。わたしにとってそれは何処かと考えました。洗礼を受けた時期に読んだ聖書のイエス様の言葉「・・・だから『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。・・・あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。」と戦後の焼け跡の続く夜の道を歌いながら歩いて教会へ通った、賛美歌39「・・・よるべなき身のたよる 主よともに宿どりませ」だと思います。しかし、長い年月の疲れか、その主への信頼はすり切れてしまって、不安の中に思いまどっているようです。だからこそ「日毎に御言葉を聴く祈りの祭壇を築き直す」のが大切なのだと頭ではわかったつもりなのですが、心がなかなかついていけません。

島之内教会も1982年に初代信徒たちによって立てられて以来、130年の時が近づいてきています。「行く手は知らねど 主は知りたまえり」との確信を持ってみんなで進んで行けたらと思っています。

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編集後記

「島之内だより」6号、皆様の原稿を頂いて出来上がりました。次号は、12月の予定です。皆様からの原稿をお待ちしています。担当の岩木、黒田までよろしくお願いいたします。

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