島之内教会たより -2010年3月第8号発行-

「キリストの復活」

牧師 大門義和

主イエス・キリストの生涯を通して、私たちがどのような人間であっても、神様は私たちを赦し、祝福し、救う約束をしていてくださいます。神様から見捨てられた人のように馬小屋での主イエスの誕生も、見下げられ、軽蔑されていたガリラヤ出身であることも、嫌われていた徴税人や罪人と言われていた人々の家を訪ね、食事をされ祝福されたのも、裏切り者のユダの足を洗い、最後の晩餐に招かれたのも、そして、犯罪者と同じ姿になり、犯罪人に「あなたは、今日、わたしと一緒に楽園(パラライス)に入る」と救いを宣言されたのも、すべてが神様の私たちへの愛の御心であり、福音です。主イエスの復活がその決定的な「しるし」、保証です。

草花の「生と死」がつながっているように、私たち人間の「生と死」も見えないところで、神様の地下水でつながっているようなものです。私たちが生きていくためには、神様の福音という地下水につながれていることが必要です。そして、汚れた水が土の中を通って、すべての汚れ、不純物が取り除けられて、きれいにされるように、神様は私たちの全ての裁かれるべき汚れ、罪を主イエス・キリストの十字架の血潮をもって、私たちに赦し、清め、そして恵みの座に移してくださるのです。

主イエスをこの世的な王として期待した人々は、エルサレム入場を歓喜しますが、その期待が裏切られると、主イエスを十字架へと叫びます。弟子たちも主イエスが捕まえられると、恐ろしくなって逃げ去りました。

主イエスの死を見届け、墓に収められた後まで、主イエスから離れずに従ったのは、ガリラヤから従ってきたマグダラのマリアなど数名の女性でした.。

日曜日の朝早く、彼女たちは香料と香油をもって墓に急ぎました。女性では動かせない大きな石で封印されているので、行っても無駄です。人生の無駄に意味があり、無駄に向かわせる力が信仰です。人間の知恵や経験で考えると無駄あっても、無から有を生み出す創造者の力を信じて、一歩を踏み出す時、人知を超えた神様の秘められた御計画と出会うのです。自分の知恵や経験や力に頼ることは、神様を必要としない生き方です。私たちを超えた偉大な存在、神様の働きを信じることが信仰に生きることです。

世界の宗教は、神様を「怒りの神、のろい神、裁きの神」と表現してきました。その神様の怒り、のろい、裁きの歴史は主イエス・キリストの十字架と共に終わりました。主イエスの復活によって神様の祝福の世界が開かれたのです。

復活の主イエスと出会ったパウロは主イエスを信じる私たちの新しい生き方として「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません」(ローマ12:14)と教えています。

しかし、私たちの現実は、主イエスの十字架が無駄であるかのように、祝福よりも呪いが強く支配しています。人の世界に、怒り、のろい、裁き、殺戮が満ちていても、私たちの最後は、主イエスの復活によって、神様が備えていてくださる赦しであり、癒しであり、祝福であることを私たちは知っています。もう何も恐れることはない、死を迎えても不安がることも、恐れることもない。生も死も自由にご支配されている復活の主イエスが共にいてくださるのです。主イエスの復活は私たちが神様の祝福の世界に招き入れてくださった「しるし」です。

同時に、日毎、私たちのための主イエスの痛みと主イエスの執り成しの祈りとを忘れず、感謝の応答をもって歩み続けましょう。

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「神様 何故ですか」と問いかけること

川島信一

私はこれまでに1.2回「神様、何故ですか」と問いかけたことがあります。あることがわたしの思いもしなかった形で起こったからです。こうあるべきだと考えていたこととは反対の方向になってしまったからです。

人は、良い事,嬉しいことが自分のまわりに起ると、素直に喜んで受け入れる。しかし、悲しい事 つらい事 苦しい事が起ると気落ちし、不安になり、受け入れがたくなります。

心のなかに持ちつづけていて、私がたどり着いた思いとは、「私がこうあるべきだと願うことと、神様がこうあるべきだとお考えになることとは、必ずしも同じではない、いや、違う場合が多いのではないか」、「私が自分にとって益と考えることを、神様は、いやそれは違うとされることがあるのではないか」ということです。長い間、そう考えてきました。

しかし、「神様の考えておられることは、私には分からない」というだけでは 私の苦しさ、つらさは変わらないし、納得もできません。

そんなとき、大門牧師の「みことばのままに」の18-19頁「当然は当然ではない」を読みました。その最後にこう書いてありました。「当然を当然として生きるとき、人は傲慢になります。神様の憐れみ、赦しの必要性に気づき、当然は当然でない、筋の通らない世界の大切さに気づくとき、人をホットさせる優しい心が育つのです。」

私は、「当然こうあるべきと自分の考えで行動し、当然こうなるものと思いこんでいたのではないか」と、自分の傲慢さに気付ききました。神様は、不信仰な私をそのまま救ってくださる、その恩恵を信じたいと思います。

もう一つ大事なことを知りました。神様に「何故ですか」と問いかけることは、自分に対しても、「それで良いのか、本当はどう思っているのか」と考えさせられることでもあると、いうことです。

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「祖父、上田貞次郎」

上田一郎

祖父、上田貞次郎(万延元年生れ)は明治13年、若くして伊藤博文初代首相より薬剤師の免許をうけ、心斎橋筋、安堂寺橋に薬店(くすりみせ)を開業。テーラー宣教師に薬品を納入。島之内教会に導かれた当時、洋酒の輸入販売をしており、多額の利益をあげていた。

祖父は島之内教会で明治17年、初代上原方立牧師より受洗のあと、洋酒の販売中止を決断し、聖書の展示即売をしていた。又、明治18年の河内(淀川)大水害の時、いち早く、天王寺茶臼山から教会の救難船を出し、救いを叫ぶ多くの難民に、衣類、食料品、水を届け、福音を語った。

上原方立牧師とは遠く河内の稲田方面に数回巡回伝道。数々の迫害の中、今の稲田教会創立に協力。大阪薬学専門学校の創立者の一人。

商売は順調で、写真薬品(メトール、ハイドロ他)多数を処方。当時としては珍しい独アグファ、米コダック等の高級写真機を輸入販売。

その後、心斎橋順慶町の上田写真ビル4階建を新築、社員(店員)も40名以上。商店の休業が1日(ついたち)、15日の月2回であったのを、日曜休業を断行。社員の礼拝出席を励行、番頭はキリスト教反対であったが、のち救われ、堺教会の長老になった。その孫が牧師。

30歳で聖書語類集(コンコルダンス)を奥野昌綱序文、宮川経輝校閲で日本初出版。また、さんびの歌(歌集、楽譜なし)を日本で初の個人出版を行なった。 明治44年、古典聖書、貴重な洋書3000冊、珍しいキリスト教禁制の立札、フミ絵などを集め「上田文庫聖書館」を設立したが、1945年(昭和20年)3月のB29空襲の大火災で焼失は残念であった。

1942年(昭和17年)の世界戦争による国家総動員、宗教統制により、日本の全教会が日本キリスト教団に強制加盟。祖父は、しもべさん(信徒伝道者)であったが、高齢84歳でアベノにて按手礼をうけ日本キリスト教団牧師となる。86歳で、浜寺で帰天した。「福音のために私はどんな事でもする。私もともに福音にあづかる為である。」(第一コリント9:23)。

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編集後記

復活祭が近づきますと何故か心が躍ります。今年は何かを「断つ」という思いで、家で飲むお酒を全てやめました。1963年4月14日は私の受洗日でした。私自身が生まれ変わる思いでイースター以外、洗礼を受けるつもりはありませんでした。個人的な感想を書きました(黒田)。
「島之内教会だより」8号をお届けします。川島兄と上田兄から原稿をいただきました。感謝です。喜ばしい復活祭を迎えられますように心よりお祈り致します。岩木、黒田。

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