牧師 大門義和
島之内教会は、新会堂の献堂式と同志社の学生であった、上原方位(まさたつ)師の仮牧師就任式が行われた1882年(明治15年)3月18日を創立記念日としている。今年は創立129周年である。
島之内教会の創立者は島之内の住人荒木安吉兄と山口孝兵衛兄である。彼らは、1878年(明治11年)1月の初旬、梅本町基督公会(現在の大阪教会)の礼拝に出席し、大変、感動、感激された。すぐに、両家でも家庭集会が行われた。
次の伝道の拠点は、南の難波であったが、難波伝道は1年近くで中止された。そこで登場するのが島之内教会の創始者たちである。組織や会議で中止を決めたから、単純に従う人たちではなかった。「あなた方が止めるならば、私たちが集会を続けます」と荒木兄と山口兄たちの自主的な、内から溢れる信仰によって家庭集会を再開し、ついに難波伝道を吸収した。
明治11年1月に教会へ行き、家庭集会に家庭を開放し、明治13年には会堂建築の建材を買い集めた。しかし、島之内全域を襲った大火事で荒木、山口の両家も類焼に遭ったために、計画はとん挫した。会堂建築どころではないと思われるが、彼らは、明治14年に会堂を建築し、明治15年3月18日に教会を設立した。
島之内教会の創始者たちの信仰は、人に従う信仰ではなかった。彼らの信仰は主イエスを見上げ、主イエスへの信仰の情熱を持って、「私がやる」との信仰であった。自主・自治・自立の信仰であった。自分の家が類焼しているのに、「先ず、神の国と神の義」に生きた、島之内教会の創始者たちの信仰を心の隅に忘れないように覚えておきたいと思う。
信仰を組織や会議で決めていると、子供の「ごっこ」遊びのように、「教会ごっこ」になってしまう。政治の世界も、教育の世界も、どこの世界も「政治ごっこ」「会社ごっこ」「学校ごっこ」になっている。
島之内教会の創始者の信仰は、パウロに似た信仰である。「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ」(ガラテヤ1:1)と告白している。また、パウロが主イエスから伝道者に召された時、「わたしは、すぐ血肉に相談するようなことはぜず、また、エルサレムに上って、わたしより先に使徒として召された人たちのもとに行くこともせず、アラビヤに退いて、そこから再びダマスコに戻ったのでした」(ガラテヤ1:16)。
信仰とは、パウロのように、人から離れて、一人で、神様の養いを受け、誰とも相談しないで立ち上がることである。島之内教会は、まさに、信仰と聖霊に導かれて始まったと言える。
教会は、組織や会議によって維持される面を持っている。しかし、信仰は一人一人が、聖書の御言葉に聴き、神様の召しに答えることがなければ、その教会の信仰の命が失われて、「教会ごっこ」になってしまう。
主イエスが選ばれた弟子たちは、ガリラヤ湖の漁師でした。選挙で選ばれるのであれば、学歴も教養もない彼らは当選しなかったでしょう。神様の御用には、何も立派な祭司である必要はない。大切なことは神様に用いられることである。教会の命は、神様に用いられることである。「神様、私を清めて、用いて下さい」との謙虚な祈りこそが信仰の命である。
最初に招かれた弟子たちは、漁師にとって命の次に大切な網を、舟を、父ゼベタイを捨てて主イエスに従った(マルコ1:18以下)。島之内の最初の弟子たちも、自分たちの家が類焼して失っているのに、先ず、教会を建てた。「先ず、神の国と神の義」に生きた先達の上に129年の歴史がある。私たちも心新たに、主イエスに「私を用いてください」と熱き祈りのある生活を積み上げて、130年を迎えましょう。
中村寛子
岡部伊都子さんの本に「沖縄の骨」というのがある。「沖縄は人骨の上に成り立っているから、生半可な心で行くことはできない」と言うような事を書かれていた。同じ様な事を漠然と考えていたわたしは、もどかしかったものが文章になって与えられた気がした。唯一の地上戦の舞台となった沖縄戦は、軍隊が国民を守らない、殺戮すらするものだということの歴史を封じ込めてきた。自国民を守らない軍隊は、強制的に日本につれてきて性奴隷(従軍慰安婦)をさせた女性たちをも殺していく。その事を考える時、わたしにとって沖縄は、とても重い土地になっていた。
四半世紀以上も前の事、日本のあちこちで米国が保管していた沖縄戦のフィルムの上映会が行われた。壕の中から白旗を掲げた女の子を米軍の前に送った二重の意味で残酷な映像をご覧になった方もいるだろう。わたしは上映会と前後して募集があった「一坪反戦地主会」の共同地主のひとりとなった。だがその後、関西の会は機能しなくなり、かろうじて沖縄と東京が会として動いている。そんな中で、大阪教区沖縄交流・連帯委員会は貴重だ。特に2002年「合同のとらえなおしと実質化」とは何かQ&Aが沖縄教区から提起されてからの沖縄訪問は、とても意味があるとわたしは思う。今回の訪問3日目に首里教会の竹花牧師のお話を伺ったが、冒頭に「わたしがお話しすることは無い。提起に対し今度は大和(本土)が答える番だと思う」と言われた。それは、わたしたち参加者にとって大きな宿題となった。研修旅行としても今回初めて訪問した宮古島で、沖縄・宮古・八重山はそれぞれ生活も文化も違う、そして宮古は人頭税を初めとして、琉球支配の時から様々の差別を受けてきたと、宮古伝道所の星野先生から聞いて驚いた。その詳細と辺野古行きについては次号で書かせていただく。