島之内教会たより -2011年5月第14号発行-

「神さまの御心を知るー出会い」

牧師 大門義和

キリスト教は出会いの宗教である。人は出会いによって、大きく変えられる。勿論、良い方にも、悪い方にも変えられる可能性を含んでいる。 

キリスト者を迫害するためにサウロ(後のパウロ)は、ダマスコの町へ急いでいた。パウロはキリスト者の逮捕、殺害こそ神様の御心だと信じていた。その途上、天からの光に照らされて、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」との呼び掛ける声を聞いた」(使徒言行録9:1以下)。同じ頃、神様がキリスト者、アナニアにパウロを訪ねるように言われた。アナニヤにとってパウロは恐ろしい殺害者であった。また、パウロにとってキリスト者は殺さなければならない伝染菌であった。どちらも歓迎できない出会いであった。

不本意な思いで、パウロを訪ねたアナニヤにとっても、キリスト者に頭に手を置いて祈ってもらわなければならないパウロにとっても、出来れば会いたくない相手であった。しかし、神様の命令2人は会った。アナニヤの執り成しの祈りによって、キリスト者パウロが生まれた。

ペトロも神様の奥義、神様の御心を本当に知ったのは異邦人、百人隊長コルネリウスとの出会いであった。好きな人や気の合う人との出会いからは、何も起こらない。しかし、御言葉と祈りに導かれる出会いは想定外の出会いが起こる。

主イエスの教会は、出会いの喜び、共に集う感謝を忘れてはならない。家族がそろって食事が出来ないことが家庭の崩壊の第一歩のように、食卓を囲まない教会も決して健全ではない。また、御言葉から恵みを頂くことと同じように大切なことは多くの人々との出会いによって、信仰が新たにされることである。

人間の歴史では、どの時代でも、清いものと清くないもの、正しいものと正しくないもの、価値あるものと価値の無いものに分けられてきた。聖書の世界では、誰が正しいか正しくないかは問題ではない。大切なことは、「神様に清められる」ことである。信仰に生きることは、私が立派であることを意味しない。信仰に生きるとは、「私は清められる必要がある」ことに気づき、自覚して生きることである。

ペトロはコルネリウスとの出会いによって、パウロはアナニアとの出会いによって、大きく変えられた。 「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行なう人は、神に受け入れられるのです」(使徒言行録10:34)と告白している。一人で聖書を読んでいても出会いはおこらない。今、生きている人々との具体的な出会いによって聖書の奥義を知ることができる。

神様の御心を知りたいと願う者のなすべきことは一つである。祈りである。御言葉を聴き、祈ることである。御言葉と祈り、そして異質な人々との出会いによって、神様の御心がより正しく気づかされる。  

孤児の父と言われた、愛染橋の創始者、石井十次氏は医者になろうとしていた。医学校の卒業試験の前に病気になり、卒業試験は不合格となった。校長が医学の実習のために小さな診療所へ遣わした。そこで8歳の前原定一さんとの出会った(1887年、明治20年)。石井先生の人生を決定する出会いであった。その出会いを偶然と取るか、神様の導きと取るかで人生が変わる。石井先生は、自分の夢を捨てて、一人の子供のために人生を捧げる決心をされた。このような決断は、神様の祝福を祈り求める生活を送る者に、祝福として神様から与えられる。

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「あれから5年、前を向いて歩きます」

佐藤佐基

東日本大震災被災者の方へお見舞い申し上げます。今回の震災被災者の方と同じような運命的な出来事が私にもありました。

私は平成16年3月16日家が焼失しました。その火事で大事な家族三人(主人・長男・次男)何もかも失いました。私は近所の方に助けられました。津波も火事も何も残してくれません。人の命までも持って行ってしまいます。3月16日の夕食時に主人と長男が「お母さん明日で(3月17日が私の誕生日)65才になるんやなぁ。」「露子おばあちゃん(64才で死亡)より長生きできて良かったなぁ」「今度は東山のおばあちゃん(実家の母88才で死亡)の年まで長生きできるよう頑張ってや」と話していました。主人も長男もいつも気にしていてくれたみたいです。ところがその夜に主人、長男、次男が私よりも先に天国に行ってしまいました。人間は本当のショックの時は涙も出ません。頭の中は真っ白で、ただしっかりしなければならないと思う気持ちでした。三人が遺骨になって、私はしばらく実家にお世話になるため部屋に落ち着いたその夜、始めて涙が溢れました。そして5月14日の教会での追悼記念式の時、真下先生に、「主人と次男には悔いはありませんが、長男には世話になりっぱなしで、まだ恩返し出来てないので悔いが残っています。」と話したら真下先生が「それだったら今日の追悼記念式は長男を中心にしましょう。」と長男の写真を真ん中に置き、主人と次男を両側にして行って頂きうれしく思いました。あれから5年、皆様のお蔭で後ろを振り返らず前を向いて歩いてきました。これからも前を向いて歩いていくつもりです。佐藤清と運命の出会いをして結婚し教会の礼拝に出席させていただいてから、教会との出会いも46年になります。これからもよろしくお願いいたします。

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「第九回宮古・沖縄研修旅行に参加して(2)」

中村寛子

全行程4日の内、最初の2日はガイドをしてくださった宮古島伝道所の星野勉牧師を始め、伝道所のみなさんのお世話になった。伝道所の入口には、ふすま2枚ほどの木の看板に憲法第9条が掲げてあった。宮古郷土史と時代区分の講和の後、星野牧師の案内でバスで宮古を10か所回った。

その中でも、琉球王朝時代に使われていた税金である粟を取るための人頭税石。その石の高さに背丈が伸びると税を払わなければならなかったという。石はわたしの胸位の高さで、いかに苛酷な制度かと思った。

宮古は地下水で暮らしていたが人工の石積みのある深い井戸は権力を持つ人が使う大和井(ヤマトガー)、庶民は階段状にはなっているが苔むし、より深い危ないつくりの盛加井(ムイカガー)とはっきりと差別があった。

「アリランの碑」は、強制的に朝鮮半島から連れてこられ性奴隷(従軍慰安婦)にされた女性たちを偲び二度とそのような悲劇が無いように、慰安婦とされた11の言語と、ベトナム戦で韓国軍に被害を受けたベトナム語を入れた計12の言語で追悼の文が記されていた。宮古には16もの慰安所があったという。その性奴隷にされた女性たちが休んでいた場所の地主が土地を提供して碑は建てられた。しかし今現在になっても日本政府は謝罪も保証もしてはいない。

翌日は主日礼拝を伝道所で守り伊良部島に行き、3日目に沖縄本島に戻った。宜野湾セミナーハウスの又吉さんらの案内で沖縄国際大学米軍ヘリ事故を写真も見ながら学んだ。その後ちゅら海水族館に行くグループと別れ、わたし達は辺野古に行った。日米合意が報道されたが地元は納得してはいない。座り込みのメンバーがモーターボートを出してくださり海上から予定地を見ることができた。ジュゴンが食べる藻場も含めここに米軍基地の拡張を許してはならないと、すでに工事を始めているのを観ながらも強く思った。

4日目、南風原センターの見学。その後、陸軍病院壕を見学。女学生たちが砲弾の合間を縫って樽を運んだという「飯上げの道」を歩く。センター見学で観た一人ひとりの写真の顔を思い浮かべた。

「戦争は嫌だ」と誰しもが言う。だが戦争によって儲けている死の商人たちがいる。じわりじわりと戦争に近づいていく時に声をあげ続ける事の大切さと難しさを今回の研修旅行は教えてくれた。わたしに出来る事はなにかを考えていきたい。

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編集後記

  • 今年度最初の「島之内教会だより」が出来上がりました。沖縄研修旅行(2)を中村寛子さんが、5年経った今だからと佐藤佐基さんが当時の事を書いてくださいました。感謝です。
  • 島之内教会では席上献金を被災された東日本の教会の人々に捧げようと決めました。祈りをもってわかちあいたいと思います。(編集委員 糀谷栄子、和田純子)

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