島之内教会たより -2011年9月第15号発行-

「御言葉を内に宿し、宗教改革を」

牧師 大門義和

来年3月18日に、島之内教会は創立130周年を迎える。歴史の長さに価値があるのではなく、何を受け継ぎ、何を守り続けているかで価値が変わる。ヴァチカンにはペトロが主イエスを裏切った時に鳴いた鶏の子孫がいるそうです。それも、歴史であり伝統である。今日的には鶏の子孫など、何の意味も価値もないと笑うこともできる。しかし、考えを変えると意味を見い出すことができる。毎朝、近所の鶏が鳴く前に、カラスが鳴く前に、聖書の御言葉をいただこう。それが主イエスを裏切らない生き方であると、決心すれば、「私の信仰」を覚醒させる力となる。自分にとって意味のあること、自分に利益のあることを選んでいる限り信仰の覚醒は起こらない。

ルカ5章にありますように、ペトロたちが夜通し苦労して漁をしても何も取れなかった。そんな彼らに主イエスは「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。どうせ無駄と思ったことでしょう。それでも、ペトロたちは「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と、何も期待せずに、網を打った。すると網が破れるほどの大漁であった。

この世の自分の生活を中心に考えれば、信仰生活のほとんどが無駄、無意味、無価値と思える。好きなことをする時間は意味があっても、礼拝の時間は無意味と思える。自分の服や御馳走のためのお金や子供・孫のために使うお金は無駄とは思わないが、献金は無駄のように思える。   

信仰に生きるとは、私の知恵と経験で考えて、意味のあること、価値のあること、神様に喜ばれると思うことを選択することではない。それは信仰を必要としないし、信仰が無くても選択できる。信仰に生きる教会とは、「お言葉ですから」と聖書の御言葉に絶

対服従する人が一人でもいることである。

教会の歴史にも、表と裏がある。地位や財力や発言力のある人間的な思いが優先した教会の表の歴史がある。同時に、その裏に、人に気付かれないほど静かに、聖書の御言葉に聴従し、祈りをもって教会を支えていてくれる人がいる。彼らは決して多数ではない。しかし、塩のように、人間の思いが支配する教会の中で、気づかれないが静に主イエスの香りを放っていてくれる人がいる。教会の歴史では決して書き残されないほど小さな存在であり、教会のこの部分に光を当てて歴史を残すこともない。しかし、そのような存在が教会の宝であり、教会の命である。その存在に気付くことが主イエスの教会への脱皮であり、新しい宗教改革である。

コロサイ書3:12以下をを見ますと、「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから」と言われている。私たちが神様に選ばれていると言うときに、忘れてならないことは、私の好き嫌いで判断してはならない。主イエスの十字架を前の祈り、「この杯をわたしから取りのけてください。sうぃかし、わたしの願うことではなく、御心に適うことが行われますように」、との祈りの生活へ召されており、それが信仰生活である。

ファリサイ派の人々や律法学者は、主イエスの教えに殺意を抱くほど憎み、怒りました。いつの時代も強者は変わることを願いません。変化を必要としているのはいつの時代も弱者である。主イエスが弱者の側に立って、決断を迫りました。変化を好まないファリサイ派の人々や律法学者たちは主イエスを十字架へ追いやった。

主イエスの側に立てば、主イエスと同じように敗北するでしょう。敗北を恐れず、苦悩の中で、主なる神を見上げ、「御言葉ですから」と聴従の歴史を重ねつつ、主イエスの教会であり続けましょう。

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「喜び、祈り、感謝」

江口恵子

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリストイエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。(第2テサロノニケ5:16〜18)

2000年12月24日に島之内教会で洗礼を受けてから早11年になろうとしています。初めて島之内教会に来たのは1999年の寒い時期でした。まったくキリスト教に縁がなかったのですが何故か。その少し前から三浦綾子さんの本を読むようになっており本の中に書いてあった、「お近くの教会に行ってみてください」と言う文章に促されるように島之内教会へ行きました。

 その当事の私は、自分はこれからどうなって行くんだろうと言う漠然とした不安と職場での人間関係が上手くいかない現実的な不安を持っていたからかも知れません。当時、あったコーヒーブレイクという集会に参加し初めて聖書を読み賛美歌を歌いながら自分でも不思議な事に涙が溢れていたのを覚えています。

すぐに礼拝に出席したいと思いましたが、美容室に勤めていたので日曜日は仕事で休む事が出来ず、平日のコーヒーブレイクの集会にだけ出席しておりました。毎週のこの時間がとても楽しみでした。でも、どうしても礼拝に出席したい思いで職場を変え教会生活がスタートしました。

礼拝を終えて教会の仲間と昼食をとりコーヒーを飲んでは話し、気がつくと夕礼拝の時間ということも珍しくありませんでした。夕礼拝に出席した後はまた食事をし、よく話しが尽きなかったもんだと思うぐらい話しをしました。

あれから11年、様々な事に恵まれ導かれ日々過ごしてきましたが当時、共に礼拝を捧げた兄弟姉妹の多くは教会に来ていない現状があります。

○自分の為に祈ります。
「礼拝に初めて出席出来た日の喜びを持ち続けさせて下さい。隣り人の為に祈る愛を私に与えて下さい。そして、また兄弟姉妹と共に礼拝出来る喜びをお与え下さい。兄弟姉妹の為に祈りを捧げることが出来感謝します。

○兄弟姉妹の為に祈ります。
「神様、教会から離れている兄弟姉妹がいます。日々の思い煩いを神様にゆだね真実の平安を、再び信仰の友にお与え下さい。」

○島之内教会の為に祈ります。
「島之内教会が創立130年を迎える事が出来ましたことを感謝します。自分の弱さ、罪を懺悔して祈りを捧げられる私達にして下さい。良き サマリア人のように隣り人の為に労苦出来る信仰をお与え下さい。」

主の御名によってアーメン。

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「礼拝祈祷」

里見純子

ご在天の父なる神様

今日の聖日、私共は七日の旅路を守られて歩み、こうしてみ堂に集められ礼拝を捧げることが出来ます幸いを感謝いたします。

夏の暑さも峠を越しましたがまだ残暑が続いています。高齢の為、又病気の為に思いを馳せながらも教会に来られない方もいらっしゃいます。どうかお一人お一人の上に神様の祝福とお守りが豊かにありますようにと祈ります。

先日の台風による豪雨の為に愛するご家族を亡くされたり、被害に会われた方々の上に神様のお慰めと励ましが与えられて前に進む力をお与え下さい。私達の地上の生活において次々と悩みや苦労が襲いかかって来ますが神様を信じることにより苦難をも誇りとすることができますように、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを悟らせて下さい。

東日本大震災から今日で丁度半年を迎えますが、被害を受けた方々にとっては先の展望が開けず、日が経つにつれて悲しみや生活の苦労が増して来ています。いくたび黙祷を捧げた事でしょうか。まだその復興もままならず便乗しての悪徳商法もあると聞いています。どうか神様、原発事故の終息の為に働いておられる方達も含めて一日も早く平穏な東北の美しい里となります様に力を与え守ってあげて下さい。

心の弱さを持ち不信仰な私達ですが、許されてみ言葉を聞くことによって与えられる恵みに感謝できる者とならせて下さい。これからみ言葉を伝えて下さいます牧師先生を祝して神様の霊が豊かに宿りますように、そしてそれを聞きます私達が心を開いて精神の養いと出来ますようにお導き下さい。これらの願いと感謝、主のみ名によって祈り、み前にお捧げ致します。

アーメン           2011.9.11

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編集後記

  • 祈ることの大切さを知らされながら、祈ることの少ない毎日です。信仰の訓練として4月から礼拝祈祷を信徒が捧げるようになりました。祈る教会になりたいと思い掲載しました。まもなく130周年を迎えます。大門牧師によって養われた信仰が一人一人に根付くように祈りながら新たな教会の歩みを始めたいと願っています。次号「130周年を迎えて」に原稿をお待ちしています。(編集委員 糀谷栄子、和田純子)

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