島之内教会たより -2011年12月第16号発行-

「私の恥を取り除く神」

牧師 大門義和

主イエスに洗礼を授けたヨハネについて、主イエスは、「およそ女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない。しかし、神の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。」(ルカ7:28)と教えている。

ヨハネの父、ザカリアは祭司であり、母、エリサベトは大祭司アロン家の娘であった。「二人とも神の前に正しい人で、主の掟をすべて守り、非のうちどころがなかった」(6)と書かれている。彼らは当時のユダヤ社会では特権階級の人たちであり、民衆から見れば、高嶺の花、うらやましい限りの理想的なカップルであったことでしょう。他人から見れば、どんなに理想的な御夫婦であっても、その人たちは神様ではなく、人間である。無限ではなく、有限である。完全ではなく、欠けを持っている。

ザカリアとエリサベトにも悩みがあった。「しかし、エリサベトは不妊の女だった」(7)。当時は、子供が与えられることが、神様から祝福されている「しるし」のように考えられていた。子供が与えられないことは、祭司であるザカリアにとっても、大祭司の子供であるエリサベトにとっても、また、彼らの親族にとっても、肩身の狭い思いであったことでしょう。一族にどんな大きな喜ぶことがあっても、ザカリアとエリサベトに子供がいないことは、彼らにとって、手足に「とげ」が刺さっているように、ちくちくと痛みが去ることは無かったことでしょう。

物ならば、100個のうち、1個がだめでも、他の99個があるから安心できる。しかし、心の問題は、その1個がだめだと、他の99個もみんなだめであるかのように落ち込んでしまう。 

私は牧師であり、同時に教会付属の幼稚園の園長を兼ねる機会が長くありました。それで、子供たちが、主イエスをキリストと信じて、洗礼を受けてくれることを願い祈り続けて来た。幼児洗礼を受けていた3人の子供が「信仰告白」をしてくれたこと以上の喜び感謝はない。子供の信仰告白という1つの小さな光が、私たちの人生のすべての労苦を光に、希望に変えてくれた。他に何も望むものは無いと思うほどの喜びであった。

名誉も地位もあったザカリアとエリサベトであったが、子供が授からないという1点で、心が晴れることがなかったことでしょう。また、必死の祈りであったことでしょう。神殿の当番に当たったことも、喜びではなく、重荷であったことでしょう。子供の与えられないザカリアは神様に祝福されていないのだから、神殿で祭司の務めをしてもらいたくないと、人々がつぶやいても不思議ではなかった。しかし、「主の聖所に入って香をたくことになった。香をたいている間、大勢の民衆が皆外で祈っていた」(9〜10)と書かれている。祭司も、牧師も自分の能力でその務めを果たせるわけではありません。ザカリアが民衆の皆の祈りに支えられて務めを果たした。人には誰かの「執り成しの祈り」が必要である。「祈られている」と実感できる人生ほど幸せなことはない。

ザカリヤたちは長く長く、祈り祈られ、苦難に耐えて、神様の祝福を祈って待っていた。そして、「主は今こそこうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました」(25)と言える時が与えられた。

主イエスは、十字架を前に「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」(ルカ2:42)と祈られた。私の願い、私の祈りを中断させ、「わたしの願いではなく、御心のままに」との祈りの生活を継続し、心の大掃除して、クリスマスや新年を迎えましょう。

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「信仰告白」

暁 キリ

「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように、共に働くということを、私たちは知っています」(ローマ書8:28)

両親の仕事の関係で、小さい頃、お祖母ちゃんに育てられました。母のおじいさんの時代から、クリスチャン家系だと話は聞いていますが、幼い私の中では「お祈り」、「礼拝」などの意味がはっきちと分かりませんでした。

年と共に、学校で「進化論」を教わって、家に帰って「人間はどこから来たの?」とお祖母ちゃんに問いかけました。すると「人間は神様に創られた」とお祖母ちゃんが微笑んでいました。「いや、違う!人間は猿からなったの!」って生意気な言い方でお祖母ちゃんとディスカッションしたのが昨日のように思います。

でも、何故かお祖母ちゃんは、学校に通うこともなく、自分の名前しか書けないのに聖書を読めるのが不思議に思いました。泣いているのに、優しく微笑んでいて、小さいのに力強い声でお祈りをしているお祖母ちゃんを見かけたら、隣でいくら一生懸命に聞き取ろうとしても、何を言っているのが全然分からないことも不思議でした。今に思うと、聖書が読めたのも、方言でお祈りが出来たのも、きっとお祖母ちゃんの心の中に聖霊が宿っていたのではないでしょうか(使徒行伝2:4)。また、第1コリント1:5のように、キリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされていたのだと思います。アーメン!

クリスチャン家系で生まれ育った、何となくクリスチャン自認した私は心から信じることは出来ませんでした。助けてほしい時は、適当にお祈りをして、聞いてくれたら「ありがとう」、聞いてくれなかったら「なんや、やっぱおらんや」と軽率な態度を取る私につい神様のお仕置きが下りました。3年前に、日本の大学で優等生として卒業した私は、就職ビザから投資系ビザの変更申請が入国管理局に不許可にされてしまいました。会社を辞めた私は期間内に再手続きをしましたが、再度不許可との結果になりました。ついにビザ切れの危機が迫ってきました。今さら再就職は間に合わない、オーバーステイは犯罪、絶対しない。結婚は誰でもいい訳ではないからだめ。残りの道は、一度帰国してから再度申請を出して、連絡待ちしかありませんでした。日本での法律では、いかなる理由であろう、ビザの更新が一度拒否されて帰国した外国人は、5年以内に日本に戻って来られない決まりがあります。既に両親から援助金の800万円を使って店を起こしてしまったのに、その残り道は所詮気休めにしかならないことに痛感しました。親にはどんな顔を見せるのか、帰国したら何をすればいいのかが想像もつかなくて、悔しい気持ちがいっぱいでした。そして、予想通りに3度目の不許可が下されました。もう諦めるしかない!でも、何故か不思議な力が心を癒してくれました。

上記の御言葉「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように、共に働くということを、私たちは知っています」(ローマ書8:28)を通して「大丈夫、神様の時を待ちなさい!」と耳ではなく、心に響いていました。初めて神様の無限なる能力に、当たり前のように心の安らぎを感じました。神様の意志によって、行政書士の先生、そして王さん達の協力で、4回目の申請を出した1ヶ月後、経営投資ビザは奇跡的に下りました。様々な決まりことを人力でどうしようもないことも、ひたすら神様を信じることによって恵まれた私でした。

私の身の回りに神様の恵みの導きの例は挙げ切れないほどたくさんあります。言葉では表現できない喜びも溢れています。ハレルヤ〜〜!!!

お祖母さんや母、姉と同じように、主イエスをキリスト(救い主)と信じて、これからの人生を歩む決心をしました。皆様のお祈りをお願いいたします。

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「信仰告白」

暁 瞳

私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して、私たちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(第Ⅰヨハネ4:10)

中国は仏教の大国とも言われます。ライさんの家系と違って、お祖母さんの時代から仏教でした。今の実家にも大きな仏壇を拝めています。それにも関わらず、今思えば、私はもう小さい頃から神様に選ばれていたのかも知れません。

10代のある日、仏教の盛大なイベントがありまして、遊びに行きました。いろんな仏教の御守りが販売されていたのが当たり前でしたが、不思議に十字架の御守りが目に付きました。遊びの気持ちで買ってきましたが、5,6年間も外せずに身に付けていたことがありました。

早くも社会人になりたくて、大学にも行かずに17歳から働いていました。数年後、友達と一緒に商売をやり始めましたが、3ヵ月後、その親友と思っていた人に裏切られて、お金が全部騙されていました。両親や周りの友達の応援もあって、私はそれを乗り越えて一人で経営していました。

2004年、全世界に広まったSARS(重症急性呼吸器症候群OR新型インフルエンザ)が流行りだして(また、ちょうど日本で鳥インフルエンザが流行した頃です)、商売もとうとう続けられなくなり、日本に留学しようと決意しました。神様に本当の意味で出会えたのは、ライさんがきっかけでした。ルームシェアになってから、学校やバイトのこと以外は、お互いの家庭のこともいつも語っていました。初めて教会に行ったのは、半分面白がってライさんの家族に連れて行かれました。3000人も集まるような教会に入った瞬間、目の前の景色に驚きました。なんと元気な人々ばかりで、なんであんなに喜んでいるのですか、と不思議に思いました。牧師の説教を聴けば聴くほど、涙が止まらなかったのです。自分にも理由が分かりませんでした。きっと聖霊を感じていたからでしょう。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して、私たちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」の御言葉のように、何とも言えない安らぎに満たされて、聖なる愛に包まれました。こんなことが出来るのは、キリスト・イエスに愛されているからだと確信しました。本当の神様にしかできないことだと思いました。今まで挫けても乗り越えてきたことは、自分が頑張った結果ではなく、きっと神様が前から私と一緒に居てくれたから頑張って来られたと思います。大学に行かなかったのも偶然ではなく、SARSに遭遇して商売を辞めたのも、日本に留学しにきたことも偶然ではない。神様が私を選んでくれたために必然なことだったと思います。

今の私には、喜びの愛の溢れる毎日を送っています。仕事がうまくいかない時は、無駄に悩まずに、神様の助けを求めるようにお祈りをします。中国に居る両親の健康も神様に見守ってくださるようにお祈りをします。苦しんでいる人たちのためにお祈りをします。健康な体でお食事やお住まいに困らないだけでも神様に愛されているからだと思え賛美します。キリスト・イエスに選ばれた私はとても幸せです。だからこそ、これからも神様にいろんな試練が与えられるかも知れませんが、何があっても神様を信じ、上記の御言葉のように、主イエスをキリストと信じて、これからの人生をキリスト者として歩んでいきたいと決心しました。皆様のお祈りの支えをお願いいたします。

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「島之内教会墓地のこと」

椿 加寿子

島之内教会百年史の中に「1981年12月、茨木健次郎夫妻より、夫人の生家である富田家の大阪市設南霊園墓地を教会墓地として捧げたいという申し出があり、教会は感謝をもってこれを受けた」と記してあります。そして墓地設立準備委員会が設けられ、個人所有を宗教法人名儀に移すことは例がなく手続などとても大変で、茨木真里子姉はそのために霊園事務所との交渉に何回も足を運びとても大変だった事を私は聞かされておりました。「献碑によって教会員の地上から天国にわたる交わりが深く親密なものとされ、感謝である」と百年史に記され1983年4月3日、献碑式がもたれました。

それから30年近く2010年藤中様所有の墓地を島之内教会の墓と合わせていただけるという話があり、そこは面積も広く霊園の入り口近くであり条件の良い所であるとの牧師先生の説明があり、その移転の話に一同賛成ということになりました。私としてはその結構な話に賛同しながら、やはり真里子姉が以前の墓のことで尽力されたこと、そして狭いながらも30年近く教会のお墓として親しんだ場所がなくなってしまうのかと、しばらくの間とても寂しさを感じました。それにしても真里子姉が捧げて下さった島之内教会の墓地があったこと、そしてこの度の藤中様からのお申し出が受けられたのだと思いますと神様に感謝、そして藤中様御一家、更に今は天上にある真里子姉に感謝で一杯です。

真里子姉は生前、教会のこと、会員殊に教会を遠ざかっている人々のことをいつも心にかけておられました。真里子姉のご両親は明治時代、偉大なる孤児の父といわれた石井十次の所で働かれ、キリスト教徒として社会事業に力を出された方です。「その両親からよい信仰を与えられたことを最大の遺産と考えて感謝して来ました。」と生前語っておられました。

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「近況報告」

2011-05-20-西田 晃

島之内教会に籍がありながら、日曜礼拝その他に出席しなくなって数年たちました。ご報告もしないまま過ぎてしまっています。今回、教会便りに近況を書くよう、チャ ンスを与えられ感謝しています。

高槻市南平台という、新興住宅地として造成されてしばらく経つ町があり、そこに 「大阪泉尾教会」の名称を持つ日本キリスト教団の教会がありました。小生の神学校同学年の親友・小林望牧師が大阪市の大正区泉尾という場所で,開拓伝道をして教会形成を始められ、土地区画整理で代替地に与えられたのが、先述の南平台。教会ごと、そこに移転。泉尾の地名を南平台に変更して、現在に至っている教会です。

2008年12月、小林牧師が脳梗塞で倒れられ、急遽クリスマス礼拝のお手伝いに伺ったのが事の始まりで、それ以来、縁あっての感じで信徒の方々と一緒に礼拝を守り次第に交わりが濃くなって、主任担任教師にと求められ現在に至っています。南平台教会は、現住陪餐会員41名、日曜礼拝平均出席者数20名くらいの小教会。

初めて伺ってご奉仕したのがクリスマス礼拝。礼拝出席者全員が教会員で、出席者全員陪餐という、感激的な聖餐式を守りました。小生は長くご奉仕できる身ではないので、次期主任担任教師を迎える準備が任務と自認し、教会員もそれを納得してくださって、先日、既存建物を牧師館として入手し、来年四月には新任牧師と一緒に、新しい歩みを始めるべく準備を重ねています。

小生、齢81歳を過ぎましたが幸い健康を支えられて、毎日曜日、礼拝のご奉仕をし役員会を司るほか、聖書を学ぶ会の助言をしたり、訪問活動に同道したりなどのお手伝いをしています。大きな建物で、出席者も多い教会に比べ、小さな建物で、礼拝出席者もそれほど多くはなく、全員歩いて教会に来ることが出来、全員お互いに顔見知りで、全員主にある兄弟姉妹の実感がもてるという親しみやすい地域密着型小教会。お役目を頂いている明年春まで、仕事をさせていただき、新任牧師に後を委ねて、地域に根ざした教会として発展する土台造りに励みたいと願っています。

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「雪降りて難路なれども」

中島哲也

秋から春にかけて、昼間の暖かい時間に散歩をしていたが、5月より早起きして午前6時ごろから約1時間、アップダウンのある道を歩いている。イエスが病人を癒してから、「立って、歩きなさい」と言われたことが最近になって、何だかその意味が体ごとわかりつつある。散歩は健康にいい、とよく聞くが、歩いているうちに、いろいろなことを考えているようだ。

今朝もフト、わたしが牧会してきたそれぞれの教会のことを思い浮かべて歩いているうちに、綾部の丹陽教会のことを思い出した。新島襄、留岡幸助等、キリスト教界の優れた人物をはじめ、同志社の学生たちが口丹波地方に伝道し、やがて北進して綾部に丹陽教会が誕生するのだが、「雪降りて難路なれども…」と記されている文章の中に感動を覚える記録がある。

明治23年に園部教会で按手礼を受けて牧師になったのが留岡幸助。その牧師から洗礼を受けた者の中に、高倉平兵衛(神学者高倉徳太郎の尊父)、波多野鶴吉(グンゼ製糸創立者)等がいた。丹陽教会の創立者である。

高倉平兵衛の日記に記して曰く、

1月18日(土)朝より田野(綾部)に行き、兄弟等と川合越えにて園部に着す。夜は講義所に行き説教会へ集う。3人の牧師演説せらる。   

1月19日(日)午前9時より牧師の按手礼および洗礼・聖餐の執行。来会の牧師は東京番町教会、神戸多聞教会、兵庫教会、大阪浪花教会、京都平安教会、同志社教会等、宣教師ゴルドン、ラーネット両氏、神戸女学校のバロス等。午後4時40分過ぎ閉会。

1月20日(月)午前8時より11人の信者と共に帰る。午後7時なり。道中、信仰上の話をなしつつ、雪降りて難路なるとも労を忘れて楽しみに満たされて帰りたり。

1月19日が大雪であったことは丹波教会の記録にも記されている。「雪降りて難路なれども」と日記の記載は短いけれど、難路以上の難路であったことは想像に難くない。この難路を終日費やして行き、園部で2晩泊まって、また終日費やして帰ったのである。南部で重要な儀式のある時、綾部、福知山の信者たちは実に文字通り十里(約40キロ)を遠しとせず、園部へ須(しゅう)知(ち)へと草鞋ばきで通ったのである。

この記事を思い出しただけでも感動を新たにする。いったい、わたしはこれほどの信仰の喜び、感動を伝えていたかどうか、自らの生温さを感じると同時に、このような教会に遣わされていたことを誇りに思っている。

また明日、歩きながらどのようなことを思い浮かべるだろうか楽しみである。

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編集後記

  • 皆様のご寄稿で16号が出来上がりました。2人の受洗者を島之内教会の群れに迎えることが出来、感謝です。「わたしはあなたのために、信仰がなくならないように祈った」とあります。主により頼み、主から離れないで共に歩みたいと思います。(編集委員 糀谷栄子、和田純子)

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