島之内教会たより -2012年5月第17号発行-

「神の息吹を受けて」

牧師 大門義和

人は希望や誇りなどを失っては生きる意味も見出せない。しかし、同時に、人の誇り、自慢、自信は神様を必要としない危険性を含んでいる。民族や宗教の誇りが、他民族や他宗教を軽蔑、差別、迫害をする原因となることは人間の歴史が証明している。

マタイ福音書5章の「山上の説教」の最後で、主イエスは「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。」(11)と教えている。批判する者より、批判される者の方が幸いなのである。

日本では、自殺者が14年間も3万人を越えている。差別や自殺者の多さも、実は教会が問われている問題である。教会は、苦悩の中にいる人々に、「主イエスを見上げよう」、「主イエスを復活させた神様の約束を想起しよう」と呼びかける使命を忘れてはならない。

130周年の「記念誌」で一人の方が、「これから、健康な方はもちろん、高齢のかたや弱者にも開かれた教会であります様に」と書いて下さった。私は姿勢を正して、この言葉を主イエスの御言葉のように受け取らせていただいた。 

ディズニーランドのミッキーマウスらの「着ぐるみ」は子供だけではなく、大人にも夢を与えている。縫いぐるみそのものには、踊ったり、動く力はない。その中に人間が入って、初めて夢を与えることができる。それでは、中に入っている人に価値があるからと、子供たちの前に、ぬいぐるみを脱いで現れると、子供たちにとって興ざめである。ミッキーマウスはじめて人に喜びを、希望を与えることができる。

主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。人が人として価値があるのは神様の「霊」を内に注がれることである(創世記2:7)。

自分の力で生きている、誰の助けも必要としないと思うことは、成熟ではなく未成熟な考えである。自分の力でどうすることも出来ない壁に当たることは、不幸な体験ではなく、人間として、貴重な体験と言える。私の誇り、自信が打ち砕かれる体験をした時、人は神様の御言葉、聖霊を受け入れることが出来る。神様が受け入れて下さるのは、焼き尽くす献げ物やいけにえではない。くだけた魂、ごめんなさい、助けて下さい、憐れんでくださいとの悔いる心である。

使徒行伝2章の聖霊降臨の出来事を体験した人々は、まさに、全てを打ち砕かれた人々であった。主イエスを信じて、全てを捨てて従った人々であった。漁師であった弟子たちは、網を捨て、船を捨て、家族を捨てて従った。その主イエスがこともあろうに、罪人の中の罪人として十字架にかけられた。目の前が真っ暗になったことでしょう。

弟子達は主イエスが死んだ絶望と主イエスを裏切った後悔の不安な暗闇に取り残されたように集まっていた。語る言葉も失い、親からはぐれた動物の子どもたちのように、震えるように、寄り添っていた。集まっていることだけが唯一の慰めであった。その心は、「神様、見捨てないでください。離れないでください。助けてください」と祈るだけであり、彼らのエゴの働きが止まっていた。その時、一人一人の上に、神様が働いてくださいました。神様の霊、息吹が吹き込まれました。人間の入っていない「着ぐるみ」に人が入って動き出すように、主イエスの弟子たちは動き始め、語り出した。それが神様の霊の働きである。

人が人として生きることは、私たちの思いや願い通りに生きることではない。神様を心に迎え入れて、神様に導かれて生きることが人間を真の人間にする。人と人の間に神様を、聖霊をお迎えすることが信仰者の姿である。

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「聖書に親しむ・祈祷会」

博野英二

主に招かれて、4月から始まった聖書に親しむ・祈祷会に参加させていただいております。毎回賛美歌を皆で歌ったあと、創世記の1章を皆で朗読します。そして大門先生のお話をいただき、その後参加者皆で感想や質問をわかちあっています。最後に一人ずつ祈りを捧げます。

聖書の学びの中で、私は自分自身が神様にどのように向かっているかが大事で、他の人の信仰(もしくは信仰を持たないこと)はそのまま受け容れることが必要であることを教えられました。

この聖書に親しむ・祈祷会は私の高慢さや至らなさ、しかしなお私がそのままでゆるされていることを再認識させてくれます。そして、神様を頼らざるを得ない私であることを覚えます。このことは私を平和な気持ちにさせてくれます。

また参加者が互いのために祈りあう時ももっています。私たちが互いにこうして祈りあうことによって、何かとても大事なかかわりがうまれる感じがしています。本当に感謝です。

木曜の朝というとても大事な時間を使うわけですが、皆様とともに聖書に親しみ、祈ることができたらと願っております。

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「私の島之内教会」

森 悠紀子

創立130周年の記念礼拝に出席させていただき、島之内教会の素晴らしい信仰の先輩の方々が築いてこられた長い歴史の中に私も連なることを許されていたことに喜びと誇りを感じながら、皆様と共に賛美させていただくことが出来、心より感謝しております。 

私は神戸女学院中学部に入学して初めてキリスト教に触れることになり、住まいの近くということで島之内教会を紹介され、教会学校に、聖日礼拝に出席させていただくことになりました。そして、中学3年生の時、今も島之内教会員の和田純子さんとご一緒に西原勇牧師先生から洗礼を授けていただきました。 

高校時代には、中島哲也先生が伝道師として、大門義和先生が同志社大学神学部より派遣神学生で来られました。 島之内教会に入ると、様々な思い出が走馬灯のようによみがえってきます。 その後私は大学時代に転居したこともあり、島之内教会を去ることになりました。 中島先生、また大門先生が、島之内教会の牧師先生として帰ってこられるとお聞きした時、島之内教会が私にとって、またとても近くに感じられ、心より嬉しく思いました。 

私の時代は、都市のドーナツ化が始まり、教会員の方々の中で郊外に転居される方も増え、西原勇牧師先生から西原明先生に変わり、地域の教会として求められている役割にも変化が出てきた時代でした。 

島之内劇場を始める原点であった劇団プロメテの岡本さんが島之内教会で活動されていた時代です。 多感な年齢にあった私には、考えすぎだったのかもしれませんが、教会が暗中模索しているように映っていました。教会の中での様々な考えの相違は、「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である」という聖書の言葉に一人一人が応えようとしての葛藤だと感じられたのは、そこに神様の働きがあったのだと思います。  

キリスト者として立派な証が出来る者ではありませんが、悲しい時には慰めを、辛い時には乗り越える力を、うれしい時には感謝を、神様が捕らえていて下さっているという信仰をしっかり育んで下さった島之内教会は、私にとって、大切な母教会なのです。
(日本基督教団甲東教会員)

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◎集会案内(日曜日はみんな一緒に教会へ)

「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神をアブラハムは信じた。」
(ローマ4:17、2012年度の年間聖句)

・「主 日 礼 拝」:毎日曜日10:30

・「聖書に親しむ・祈祷会」:毎木曜日10:30

・島之内「祈りの集い」: 毎月第四金曜日10:30

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編集後記

  • 宣教部として「島之内教会だより」第17号を出すにあたり、原稿が集まるのか心配しましたが、元島之内教会会員であった方の原稿まで頂き、心より感謝申し上げます。わたし達が、神様の息吹を頂いて働くものとなれますよう、祈ります。今後も、明日の島之内教会への良き提言の原稿をお願いします。(次号は9月発行)(編集委員 土橋薫、林哲子)

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