島之内教会たより -2012年12月第19号発行-

「食卓に、メリークリスマス」

牧師 大門義和

東日本大震災は2011年(平成23年)3月11日であった。教会に居て、めまいを感じ、不安になり立ち上がった。そして、大きな地震であったと直感した。数分後、電話を下さった教会員に、私は、「テレビをつけて、大きな地震があった」と伝えた。「東北の宮城県の方でですよ」とまだ津波の映像が流されていないテレビを見て、彼女は冷静に教えてくれた。この揺れかたは、そんなはずがない、もっと近くだと思うほどの揺れであった。

家に帰ってテレビを見て、この観測史上最大の地震、津波報道を見ながら、その規模の大きさは、映画を観ているようで、日本で起こっているとは信じがたい光景であった。

死者・行方不明者は約2万人、建築物の全壊・半壊は合わせて39万戸以上、ピーク時の避難者は40万人以上、停電世帯は900万戸以上であった。地震、津波の災害であれば、多くの犠牲者を出した悲しみの中でも、再建に取り組めたかも知れないが、福島原発事故がより大きな不安と恐怖を今も与えている。

福島原発事故による避難者の数は、全国で約34万人、うち福島県では約16万人、福島県からの県外避難者だけでも6万人を超えているという。政府も東電も事実を隠していることもあって、福島県民だけではなく、国民の不安は減少されるどころか、増大している。

福島に留まっている農家も、放射能の見えない、匂わない、被害が30年先ということに、大きな不安を覚えながら生活されている。農作物を作っても年配者は、放射能の心配があっても食べている。しかし、若い人には「自己責任で食べて」と断っていると言う。それを聞くと涙がこぼれます。原発事故が多くの人たちの決死の覚悟で収束に当たってくださっているが、収束しても、汚染土の除去にどれぐらいかかるのでしょうか。農家が安心して野作物を作り、安心して食べるのはいつのことなのでしょうか。 

クリスマスを前に、どのような姿勢で今年のクリスマスを迎えるべきなのだろうかと祈り求めていた。与えられた御言葉は「神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです」(ヨハネの手紙第一4:10〜12)。

一年間お世話になった方々への日本的なお歳暮、また、親しき方々へのクリスマスプレゼントを今年は少し失礼させて頂き、今年のクリスマスは、祈りの中で導かれたことを選択しました。福島県で農作物を作り、家族のために祈りと愛情を込めて作った食事を、放射能の心配で、家族に「自己責任で食べてください」と言わなければならない家庭に、家族が一緒に「メリークリスマス」と和気あいあいと食卓を囲んでいただこう。そのように示されて、より安心な関西の農作物を「メリークリスマス」として少しですがお送りしています。

また、島之内教会もクリスマスに一人の受洗者が与えられました。2ページの信仰告白の糀谷栄里子姉です。神様から教会の希望となる大きな大きなプレゼントです。

2013年も皆様の上に主イエス・キリストの御加護をお祈りしています。また、島之内教会のためにも皆様のお祈りのお支えをお願いします。

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「信仰告白〜信仰と私〜」

糀谷栄里子

本日は受洗の証の場を賜りましたことを感謝いたします。この場をお借りいたしまして、私がどのような導きによって本日受洗に至ったかをお話しさせて頂きます。

私にとって「キリスト教」は、決して特別なものではありません。初めての出会いは12歳、神戸女学院中等部に入学した春のことでした。真新しい聖書と讃美歌を与えられ、「この分厚く重たい本はなんだろう」と不思議に思ったものでした。

神戸女学院では、朝の礼拝から一日が始まります。行事の際はかならず開会礼拝から始められ、閉会礼拝をもって終えられます。そのたび黙祷をし、聖句を暗誦し、聖書の御言葉に耳を傾け、祈りの一時を持ちました。神戸女学院でのキリスト教との関わりは毎日の礼拝の時間だけに留まりません。週に一度、行われる「聖書」の授業。ここで私は聖書に関する基本的な知識、またそれぞれの御言葉に関する先生方の豊かな考えに触れることができました。

家庭科の最初の授業で作ったのは聖書と讃美歌を入れるのにぴったりのサイズの小さなカバン、通称“聖讃入れ”でした。もちろん音楽の授業も常に讃美歌と共にありました。年二回行われる「讃美歌コンクール」はクラス対抗で行われる非常に大きな行事で、この編曲・歌唱指導、はたまた本番での指揮に至るまで、勉強する時間を削ってまで懸命に取り組むなど、情熱を燃やしたものでした。

このような学生生活を送るうちに、キリスト教の信仰の中心である礼拝や祈り・讃美歌は、その意味を理解するより早く、私自身も気づかぬうちに「在って当然のもの」として私の心の奥底まで浸透していったのではないかと思います。また、音楽は私の生きる意味であり、希望であり、人生の光です。その音楽を大学・大学院の6年間で学ぶ中で「宗教曲」との出会いがありました。バッハやヘンデル、モーツァルトのミサなど、数々の美しく心打つ音楽が聖書の物語の上に紡がれています。何百年も前から人は、教会・聖書・祈りに美しい音楽を見出してきたのだと知り、大きな感動を覚えました。また、土橋薫先生の招きにより、島之内教会で演奏奉仕の機会を与えられたことは私にとって大きな喜びです。

私自身、演奏する者として音楽の生まれた背景やそこに込められた祈り・思いを理解することは非常に重要なことです。今回受洗を賜り、これからは本物の祈りを込めた演奏ができるよう、努めて精進して参りたいと思います。

もう一つ、私を受洗へと導いた大切な出会いがあります。それは神戸女学院で聖書の教諭をしていた久保田栄先生との出会いです。初めての聖書の授業を久保田先生に教わりました。その後授業を担当されなくなり、また教職の場を先生が去られてからも、久保田先生とは不思議なご縁がありました。大学受験や実技試験の前、本番前などに偶然久保田先生と出くわすのです。その確率は本当に不思議な程で、その度に先生にお声掛けし短い時間ですがお話する時間を持ちました。そしてその時に毎回久保田先生が仰っていたのが「私は毎日毎晩人のためにお祈りをしています。糀谷さん、あなたの名前も私の手帳に書いてあるのよ。糀谷さんが神様の御心に導かれますように」ということでした。私は決して善い人間ではありません。しかしこれまで大きく躓くこともなく恵まれた人生を歩んでこられたのは、私以外の誰かが私のために、御恵みと導きがあるようにと祈っていてくれていたからではないだろうか、と久保田先生との関わりの中で気付くことができたのです。

私が信仰を持つ以前から、そこには「神様が選んでくださった」という招きがあったのではないでしょうか。ヨハネによる第一の手紙4章10節には、『私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子をつかわされました。ここに愛があるのです。』という御言葉があります。この御言葉のように、私は自身も気付かぬうちに多くの祈りに守られ、導かれたのだと思います。 そして、私のために祈ってくれる人と言って一番に挙げられるのはもちろん、母です。どんな時でも私の考えを尊重し、決して考えを曲げない頑固な私に愛想をつかすことなく、私の決めたことを応援してくれる母の祈りに守られ、私は今日ここまで導かれてきたのだと思います。

神戸女学院で12年間学び、礼拝のある生活が染み込み、音楽を通して祈りを捧げ、一番近くにいる母もそうである私にとって、受洗を賜り、信仰の道に入ることはとても自然なことです。

この日を迎えるにあたり、大門先生から素敵なお話を伺いました。それは、『ある街に明るく親切でとても素敵な人がいた。その隣の奥さんはなぜその人がそんなに素敵なのか不思議に思ってある時その人の後を付いて行った。そうするとその人は教会に入っていった。そして、その隣の奥さんもまた教会に入り、信仰の道に入った』というものです。私はこのお話に出てくるような素敵な人になりたいです。“あの人はどうしてあんなにエネルギーがあって前向きで親切で人のために生きているんだろう!”と周りの人に不思議に思われるような、そして、“そうか、信じる道があるからあの人は素敵なのだ”と気づいてもらえるような行いをして生きていきたいと思います。

今までも、これからも私の心によすがとして在るのがこの御言葉です。マタイによる福音書 7章7節〜8節・12節『求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門を叩きなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求めるものは受け、探すものは見つけ、門を叩くものには開かれる。』『だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。』

自分自身の人生、周りの方々の人生がより豊かに、輝いていけるようにこの御言葉を胸に、そして、愛する学び舎神戸女学院の永久標語である『愛神愛隣』の精神で、これからは私も人のために祈りを捧げていきたいと思います。

最後にこの『愛神愛隣』の聖書の箇所を暗誦し、私の証の言葉とさせて頂きます。

マタイによる福音書 22章37節〜38節『イエスは言われた。心を尽くし精神を尽くし思いを尽くしてあなたの神である主を愛しなさい。これが最も重要な第一の掟である。第二もこれと同じように重要である。隣人を自分のように愛しなさい。』

ありがとうございました。

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「「聖書に親しむ・祈祷会」について」

近藤淑子

今年の4月から、毎週木曜日に「聖書に親しむ・祈祷会」が始まりました。創世記の学びです。毎週一章づつ学びます。

天地創造、創造と堕落、カインとアベル、大洪水、祝福と契約、ノアの子孫、バベルの塔、アブラムの移住、ハガルとイシュマエル、アブラム、アブラハムと改名、イサクの誕生、イサクの奉献、サラの死と墓地購入、イサクとリベカの結婚、アブラハムの死と埋葬、イサクの双子の子ども、エサウとヤコブの誕生、リベカの計略、ヤコブの夢、ヤコブと伯父ラバン、ヤコブの結婚。11月までに、このようなところまで学んできました。29章までです。

私は子供の頃、創世記は物語として、絵本を見たり、話を聞かされたりして、遠い昔の異国のおとぎ話のように、感激しながら、興味深く、親しんでいたのを思い出します。

毎週、一章づつ学びますが、昔の物語のような中にも神様の恵み、祝福があふれ、私達の信仰生活のあり方、生きる指針が多くちりばめられていることが分かります。新しい発見があります。同じところを読みながらも、各人の受けとめ方、考えさせられた個所が色々あり、一人では気づかなかったことを教えられたり、視野が広がるようで勉強になります。

この祈祷会は次のような順序で進められます。はじめに讃美歌を歌います。次にみんなで声を出して、ゆっくりとその日に与えられた一章を読みます。そして、大門先生のメッセージを聞きます。[先生が内容の説明を書いて下さったプリントを元にして]。その後、一人づつ感じたこと、学んだことを話したり(パスしても良いのです)、質問したりします。そして、感じたこと、学んだことを含めたお祈りを順番に捧げます。先生はお祈りの最後に出席者一人づつとその家族のために祝福のお祈りをして下さいます。最後にみんなで「主の祈り」を祈ります。

毎日、さわがしい世の中で生活していますが、このようにじっくりと聖書を読み、考え。そして、どんな時でも、共にいて、祝福を与えて下さる神様のことを学び,祷り合う、この静かな時間が与えられていることを感謝しております。

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「ドイツを訪ねて」

土橋 薫

わたしがドイツで勉強したのは、もうはるか昔の、30年前のことになる。それから何度もドイツを訪れてはいるが、やはりクリスマス時期にドイツにいたのは留学中のみなので、今は少し様子が違っているかもしれない。

アドヴェントが近づくと、町にはクリスマス市が立つ。クリスマスツリーや窓辺を飾るさまざまな装飾品にも、わらを編んで手作りした星や天使があり、蜜蝋でできた上等のろうそくや、伝統的なクリスマスクッキーなど、ドイツならではの店は印象に残っている。

クリスマスに付き物の「香り」もある。寒い冬に身体を温めるグリューワイン(赤ワインに砂糖、スパイス、オレンジやレモンなどの果物を入れて暖めたもの)、また伝統的なクリスマスクッキー(英語ではジンジャーブレッド)には、生姜、シナモン、クローブなどのスパイスがたっぷり入り、クリスマス市にはその甘い香りが満ちている。もちろんクリスマスツリーの樅の木、また樅の枝で編まれたクランツも、すがすがしい香りを放つ。

アドヴェント、特に第一アドヴェントをしっかり意識してお祝いをするという事も、教会音楽学校で体験した。音楽関係では、クリスマスオラトリオや、カンタータの演奏会が多く開かれ、またバレエでは「くるみ割り人形」もクリスマスの定番である。

クリスマスイブの24日には、普段教会に行かない人々もそろって教会に行く事が多い。学校や仕事で家を離れている家族も皆帰ってくるので、家族でのお祝いや親族同士のお招きも多い。25日、26日までは、ちょうど日本のお正月の三が日のような雰囲気で、商店やレストランも閉めるところが多く、町も静かである。日本では何と言ってもお正月が最も大事な行事であるから、25日の夜ともなれば、商店街の飾りつけは既に迎春用に取り替えられ、BGMもクリスマスソングからお琴などに変わってしまって、クリスマスの余韻を味わえないのが、大変残念である。

クリスチャンで無い友人たちには、ドイツでは1月6日までは「松の内」ならぬ「樅の内」だよ、イエスさまを拝みに東方の博士達が星を頼りにやって来てたどり着いたのが、その日だから、そこまでは少なくともクリスマスツリーやクランツは置いておくのだよ、と説明する。

わたしたちの教会でも、各国から集まっている若者達の思い出に残るクリスマスのお祝いをしたいものだと思う。

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「少年時代のX’mas(昭和10年代)」

上田一郎

祖父・貞治郎、明治18年島之内教会にて初代上原方立牧師より受洗。祖母・タネ、同明治18年頃浪花教会にて代務者、新島 襄より受洗した。 

祖父母はその後、ブラントさん(英国人)のパンさき集会(松屋町、神崎町)に参加。信徒伝道者(しもべさん)であった。

ある年のX’masに天満教会の木村清松牧師を迎えての伝道集会に100名近く集まり、大盛会であった。木村清松は説教の終わりに大声で「主イエスを信じる人は全員起立」といわれ子供心にも深い印象に残っている。(木村清松はある日、汽船のデッキで演説を始められたところ、たちまち群衆が集まり、汽船が片側に傾いた、とは有名な話である)

当時SS(日曜学校、浅田羊一校長)には少年少女30名位集っていた。聖句暗唱がよく行われ、「神は愛なり」(旧讃美歌87番B)を歌った。「霊魂自動洗濯機」「3人の博士の旅」他の聖劇(ページェント)にも参加した。

(注)浪花教会の初代、沢山保羅(パウロ、幼名、沢山馬之助、長州藩士の子)、若くして米国に留学、25歳で帰国したところ大蔵省、外務省から高給で招聘があったのを断わり、浪花教会に月給10円で就任(実際の支給額はわずか5円)。結核を発病しており、35歳で永眠する迄、講壇に立つことは、ほとんどなく病中にあり、妻子とも結核で召天するなど悲劇の一家であった。沢山牧師が病床にあって、教会員全員を記した「祈りのカード」が今も残され、涙と共に日夜たえず祈った話は有名である。

(注)昭和17年〜20年8月敗戦迄は教会に行く人は「アメリカのスパイや」と云われ、礼拝に出席する信徒はほいとんど居なかった。日の丸を教会正面に掲げ、東方(皇居)への拝礼、神国日本、天皇は現人神(あらひとがみ)、四位一体の暗黒時代であった。

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編集後記

  • クリスマスを迎えるにあたり、新しく一人の姉妹が受洗されて教会員に加えられることに心より感謝します。今はいろいろな意味で厳しい時代ですが、神様は常に希望を与えて下さるという確信を持って、ともに祈りつつ、島之内教会の歩みを続けていきたいと思います。(編集委員:土橋 薫、林 哲子)

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