島之内教会たより -2013年6月第21号発行-

「神様に甘えるられる温かい信仰を」

牧師 大門義和

マタイ20章に「ぶどう園の労働者」のたとえがある。夜明けから働いた人、9時から働いた人、12時から働いた人、3時から働いた人、5時から働いた人がいた。賃金を払う時、先ず、夜明けから働いた人に賃金を払うのが人間的な常識である。ところが、聖書は、夕方5時から1時間しか働かなかった人から賃金をはらっている。それも12時間働いた人と同じ額の賃金である。聖書の常識は人間の常識とは違う。

だから、人間的な常識が不必要で、聖書の常識だけで良いのではない。人間社会は人間の常識の枠内で運営されないと社会の統制は取れなくなる。しかし、人間の常識の中で全ての問題が解決されるわけでもない。必ず、光の当らない場所、光の当らない人がいる。聖書は、12時間働いた人と1時間しか働かない人と同じ賃金を払えと教えているのではない。社会が成立しなくなる。

家族や地域や教会やどんな社会でも、人の価値観で、「良い人と悪い人」に分けられる。「信用できる人と信用出来ない人」に分けてしまう。しかし、主イエスの御心は、人に雇ってもらえない人にも、夜明けから雇ってもらえる人と同じ愛を平等に与えたいのです。たとえ、1時間でも働くことを教え、働いたことに、「よくやったね」と褒めてあげたいのです。

「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」(マタイ5:43)との教えが、私たちに対する神様の御心なのです。

人間の常識のみが支配する社会は神様の御心から離れた罪の世界となるように、人間の知恵と経験という常識のみに支配された教会は、「わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである」(マルコ11:17)との主イエスの御言葉に反して、「強盗の巣」になってしまう。 

教会がこの社会の「地の塩」「世の光」(マタイ5:13以下)として、希望の光を放つためには、先ず、神様の常識、神様の御心、神様の御計画を聖書から学び、日々の生活の生きる尺度として心に宿していることが主イエスの僕(しもべ)には大切なことである。その時、主イエスの教会の存在の意味を発揮する。

人間社会で1番大切なものが、神様の前でも1番大切なものとは限らない。「先にいる多くの者は後になり、後にいる多くの者が先になる」(マルコ10:31)との教えを忘れてはならない。

人間社会では、できるだけ人さまに迷惑をかけないで生きようとすることは良い常識である。しかし、聖書の世界では、神様に迷惑をかけない生き方が良い常識ではない。神様にも人さまにもは迷惑をかけなければ生きていけない「弱さ」を知り抜くことが大切な信仰である。

「神様に迷惑をかけたくない」との心は人間的には良い常識ですが、それは、神様を必要としない不信仰の告白である。

本来、神様には「私」を憐れみ、助け、救う義務も責任もない。しかし、主イエスは、「友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう」(ルカ11:8)と教え、私たちに、「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」と教えている。神様に迷惑をかけなさいと奨めているのです。人間の常識のみが支配する社会は神様の御心から遊離した冷たい罪の世界となってしまう。神様の温かい愛に支配され、祈り豊かな教会を形成しましょう。神様を幼児のように、「おとうちゃん」と呼びかける暖かい信仰を共有しましょう。

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「神様と関係を深めて」

フィリップ・イディリス

ペンテコステの日、ある神様の御言葉を思い出しました。使徒言行録1:8「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまでわたしの証人となる。」この言葉はイエス・キリストが天に上げられた前の最後の使命でした。

主イエスの証人として生きるとは主イエス・キリストの福音を多くの人に宣べ伝えることです。更に、伝言だけでなく日々生活している中で御言葉を行うということがとても大事です。これが私にとって一番難しいです。何故かというと、主イエスと関係が浅い、神様との時間が無い、聖書も読んでいない、祈りも食事の前だけです。自分と神様の関係が親しくないのに、どうやって主イエスのことを伝えることが出来ますか。こんなことはいつも自分の言い訳になり、福音を宣べ伝える資格はないと思っています。ですが、資格がないからといって、ずっとこんな状態になっていることはいけません。

毎週日曜日に教会で神様の御言葉を聞くことができることに感謝します。御言葉によって私が神様に叱られたような感じがします。今回のペンテコステは自分を変えて神様との関係をやり直して深めていきたいという決心をしました。

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「何もかもが繋がった洗礼」

岡部祐加子

神様に導かれて洗礼を受けてから12年が経ちました。私は家族で一人だけのクリスチャンです。大人になってキリスト教に初めて出会い、その教えをすんなりと受け入れることが出来たのは、小さい頃からの母の影響が大きいと思います。

子供の頃から、良いことも悪いこともすべて神様が見てらっしゃるよ。みんな神様の子供だから仲良くしなさい。など、常に目には見えない“神様”という存在を示し教えてくれた母の影響で漠然とでしたが想像し、心の中で祈るということが自然になっていました。

そして「神様」という存在が常に心のなかにありました。

そう言う母は、小学校の6年間をミッション系のスクールで過ごしたそうで、聖書も讃美歌も家にあるのを私が洗礼を受けたあと見せてくれました。

月日は流れ、大学生の時初めての海外遠征で訪れたカナダのモントリオール。1日だけ自由な時間があったので泊まっていたホテルの前にあったセントジョセフ大聖堂に行くことにしました。一段一段階段を登りたどり着いた礼拝堂に入った瞬間に、何かが自分の中で動くのを感じたのです。

初めての海外で心許せる仲間もなく緊張していたせいかもしれませんが、何かとても大きな存在に包まれたような安心感に涙が溢れました。

そこで教会というところに興味が湧き、日本に帰っても行ってみたいなぁと思ったのです。

日本に帰りまたしばらくが過ぎた頃、演奏会の会場を探していた私は、心斎橋にコンサートが出来る素敵な教会があると聞き、島之内教会を訪れました。ちょうど日曜日で、礼拝に参加してみませんかと言って頂いたので出席し、そこで初めて聖書のお話を聞きました。

そしてやはりその日もカナダで感じたような感覚が甦り、聖書のお話も小さい頃から自分の心の中で思っていた不安や疑問を解決してくれる、まさに何もかもが繋がったような気がしました。そしてイースターに洗礼を受けました。

1年前、母の病気が分かり、これまでの信仰生活で最も祈りの大切さを感じる毎日です。先日は母が「主の祈りは今でも覚えているよ」と言うので二人で一緒に祈りました。私は安心しています。信じています。どんなときも、神様が共にいてくださると信じ、すべてに感謝し、祈り、これからも生きていきたいと思っています。いつも母のことをお祈りに加えて下さり感謝しています。

編集後記

  • 今号は、若手の方々から原稿を頂き、大変うれしく感謝いたします。自分の若かった頃を振り返ると、とてもこのようなまっすぐな信仰を持てていなかったなと反省します。それどころか、今もなお迷ってばかりの自分を情けなく思います。ただ、そのような、頼りなくしっかりしていない者だからこそ、神様に祈り、助けを求めるのではないでしょうか。「島之内教会だより」の原稿を読み、わたしも神様に与えられた恵みに気づく事と感謝する事ができ、常に祈れるようになりたいと思いました。(編集委員:江口恵子、土橋薫)

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