島之内教会たより -2013年12月第23号発行-

「新たな感謝と決意でクリスマスを」

牧師 大門義和

都会では見上げると目まいがするほどの高層建築が競い合うように建てられている。高層建築がその都市の繁栄のシンボルであり、高層建築のより高い所に住むことが人生の成功のしるしのように錯覚していないだろうか。より高くへ上り着くことが人間の価値となるのだろうか。

3・11の東日本大震災以来、高層階に住むことが人生の価値であるとの神話に疑いを感じ始めたことは良い気づきである。

私たちの想像以上に、人間は生まれた時から、より早く、より高くへと動き始める生きる力、生命力が与えられている。卵からかえったウミガメの赤ちゃんが一目散に海に向かう姿、魚の稚魚が水の流れに抗して泳ぐ姿などを見ていると、全ての動物が学ばなくても一人で、一匹で生きていける生命力を与えられていることを痛感させられる。人間だけが、子供に与えられている生命力の芽を「教育」と言う名のもとで、大人は摘み取ってしまっているのではないかと思う程である。  

神様からのクリスマスメッセージは、「上る」ことに価値を見出している私たちに、「下る」ことの大切さを教えている。より早く、より高く神様に向かって「上る」ことに価値があるのではない。神様は高きより、低き私たちの生活の場に「下る」方である。パウロも、「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ2:6〜7)と教えている。

より高くへ上って、人々を光り照らすことは教会やキリスト者の務めではない。私たちが光り輝くのではない。星が太陽の光を受けて輝くように、教会は、キリスト者は、神様から御言葉と言う光を受けるのである。自分が光り輝くことに関心を持つことは、主イエス・キリストを必要としない姿である。

私たち、人間に必要な光は神様ご自身である。聖書も、「この都には、それを照らす太陽も月も、必要でない。神の栄光が都を照らしており、小羊が都の明かりだからである」(ヨハネ黙示録21:23)と教えている。光は上からではなく、真の光は下から照らされる。それがクリスマスの光である。

教会のクリスマスの主役は主イエス・キリストであるが、町のクリスマスの主役はサンタクロースである。サンタクロースは4世紀ごろの聖ニコラス司教(271年〜343年ごろ)であった。彼は、日ごろから、困っている人や貧しい人を助け、自分の持ち物を惜しまず与える心の優しい人であった。ある時、ニコラスの近所に3人の娘のいる家族がいた。たいへん貧しくて、娘を売らなければならないほど、お金に困っていた。そのことを知ったニコラスは、その夜、その家の煙突から金貨を投げ入れた。ちょうどその金貨は、暖炉のそばに干してあった靴下の中に入って、そのお金で娘は救われ、後に結婚することができたと伝えられている。  

サンタクロースの着ている赤い服は、聖ニコラスが生きたころの、司教の儀式のときの服がもとになったと思われる。司教の赤い色は、自分の命をかけても、他の人を助けることを意味し、血を流しても人々のために尽くす決意のしるしであった。

クリスマスを象徴する色は「緑」(神が与えて下さる永遠の命)と「赤](主イエスの贖いの血、そして、命をかけ、神様に仕え、他者を助ける決意)である。私たちも緑と赤を明確にしてクリスマスをむかえましょう。

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「私の行くべき所は主の教会」

椿加寿子

主の御名をさんびいたします。

長い間、礼拝をお休み、神様に申し訳ない気持をいつも思っておりました。

昨年の元旦に急に右膝に強い痛みを感じ救急車で病院へ運ばれ、4ヶ月入院。退院後現在も週2日、市の介護老人保健施設に入れてもらい、

リハビリ等を行っている状態です。

その後、足の状態も大分よくなってきましたので、9月22日、礼拝に久しぶりに参加させていただきました。車を降りるとすぐ岩木ご夫妻にお逢い、大門先生にもお逢いし、うれしさがこみあげてきました。

礼拝堂に入り、教会の皆々様方とお逢いし、礼拝に参加する事が出来まして、本当にうれしい気持を体一杯いただきました。

大門先生の説教を聞き、私の行く先はここの礼拝堂だったと、感謝とうれしさがこみあげてきました。

信仰のまことに弱い弱い、御心にかなう事の出来ない私です。イエスの十字架によって、私たちが生かされているという事を思い、神様に感謝の気持ちをたえず持ちつづけられます様、また、賛美の心を強くもちたいものだと思います。

現在、老人保健施設にお世話になっておりますが、体の御不自由な方、入所してまもない方々のお話の相手等させていただき、いくらかでも精神的お役に立てればと思い、「祈っていますよ」と声をかけております。感謝。

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「「聖書に親しむ祈祷会」に感謝して」

八尾喜光恵

昨年4月から、祈祷会が再開され、大門牧師にお導きいただき「創世記」を勉強させていただきました。

神様が天地と万物を創造されたことから始まりました。「神様の指示に従うことが信仰です(8章)。「ノアの大洪水で常に悪いことばかりを思い計っている。人を造ったことを神様は後悔し心を痛められたこと(11章)。人間の貧しさは神様の前での豊かさである(14章)。信仰とは不可能を可能に、絶望を笑いに変えてくださる神様を信じることです(17章)。人間の全ての営みには完全は無いし、常に欠点・欠陥を含んでいる(25章)。信仰は継ぎ足しではなく、全てを捨てて一からやり直すことが大切です(36章)。

37章からの「ヨセフ物語」では、ヨセフは兄たちに憎まれ、穴にの中に捨てられますが、ミディアンの商人の助けられ、エジプトへ連れて来られ、ファラオの宮廷役人、侍従長ポティファルに買い取られます。いろいろな苦難を体験しますが、神様がいつも共におられて、護り、祝福されました。そして、エジプトを飢餓から救いました。私たちの「時」ではなく、神様の「時」を待つことです(44章)。人間の知恵と経験に支配されているようでも、神様の支配下にあることを忘れないようにしたいものです(45章)。人には祝福に値するものと値しないものがある。私たちの善と悪、表と裏の両方を神様は見抜かれていることを忘れてはならない(49章)。

創世記では先生から多くのことを学ばせていただきましたが、私の感じた個所を記させていただきました。特に37章からの「ヨセフ物語」は小説を読んでいるようで、楽しく学ばせていただきました。

今年の6月からは、「エゼキエル書」の学びに入っておりますが、どの章もとても難しく、私だけではとても理解できなくて、たぶん途中で読むことを止めていたと思います。毎回、大門牧師はプリントをご用意くださり、それに従って解説していただいて、少しは理解できていると思います。

エゼキエル書は48章まであります。私の計算では、3月で先生が辞されることになりますと、12章が残ります。本当に残念に思います。

「出会いに感謝」

和田純子

母和田彰子の葬儀を島之内教会で行うことが出来たことを心から感謝しています。

母にとって教会と病院が生活の大半でした。病院を建てそこで働き、あとをよろしくと、私たちに託して天国に帰りました。4人の子育てと仕事で忙しく、よく動き回り、働く母でした。 

現役を退いてからも、白衣を着て患者さんの所に行くのが楽しみで、看護婦さんに助けられて耳鼻科の処置をしていた母の姿が思い出されます。本当に病院が好きな人でした。元来健康であったが心臓疾患で11年前から、入退院を繰り返すようになり昨年の10月が最後の入院となりました。食欲もあり、まだ大丈夫かなと期待していましたが、亡くなる1カ月前は、ベッド上の生活を余儀なくされ、強い母が弱く小さくなりました。

入院当初は自分では出来なくなっているのに、何でも自分でしようとしていましたが、体力の衰えと共に、安心して身を任せるようになりました。また治療に対しても何も指図せず任せてくれました。自分の病院でスッタフの手厚い看護を受け、幸せだったと思います。「教会に行きたい」と最後まで言っていました。「ありがとう、ありがとう」と介護の方にいつも言っていました。 

今年の春頃に、もう天国が近いと感じ、大門先生に島之内教会で葬儀をすることを相談し、役員会に諮って頂きました。高齢だし出来るだけ簡素に身内だけでと私たち姉妹は願い、患者さんや医師会には知らせませんでした。(実際には島之内教会の方、大阪中華基督教長老會の方々、病院の職員が大勢列席してくださいました。)

先日も母の死を聞いたという何人かの患者さんから「寂しくなりましたね」「ご愁傷様でした」「彰子先生には本当にお世話になりました。50年も」等々と声を掛けられ母への感謝を告げられます。「ああそうなんだ」と改めて母の働きを知ります。また10月27日に中華キリスト教長老教会で母の追悼記念礼拝をして頂きました。そこでも沢山の方からお世話になったと聞かされました。

「母と娘」に限りませんが、親子関係というのは厄介なもので、なかなか許しあえず、理解し合えない面があります。私と母との間にもいろいろな葛藤、確執がありました。子供の頃、特別母に可愛がられたという記憶がありません。私が手の掛からない子供であったからなのでしょう。母の愛情は体の弱い子供に向けられるのかもしれません。

激動の時代を生きた、立派な母に違いないのですが、世間での評価とは違い、子供にとっては別な一面、思いがあります。私は冷やかな傍観者で、母の思いや信仰を理解せず、喜んで手伝おうとはしませんでした。私が、充分成長していない、大人になっていないため、母を理解できなかった部分もあったのは確かです。私は長い間反発し、母のようにはなりたくないと批判的でした。そして厳しい目で見ていました。母に対して優しい娘ではありませんでした。仲の良い関係だったとは言えません。しかし晩年、母の主治医として、強い母が弱々しく小さくなっていくのを診ることになりました。特にこの1〜2年の病院での日々を通して、心のわだかまりが溶けて、母と和解できたと感じています。平安に母を見送るために私にとって必要な時間でした。心からの和解の時が与えられたと神様に感謝しています。

私が教会に行くようになったのは、両親の勧め、特に母の勧めでミッションスクールに進んだことが大きかったと思います。そのおかげで教会に行き、信仰を与えられたと感謝しています。母と同じように医師として信仰者として歩んでいる私。私自身の歩みの上に知らず知らずのうちに母の影響があったようで(反面教師としての面も含め)やはり母は私にとって大きな存在であったと思います。不思議なことに、母が天国に帰った今、淋しいというより平安で充たされた気持ちです。再び天国で逢う日には成長して神様と母に褒めてもらおうと思います。

「ラーマン大学合唱団を迎えて」

デイジー・ムリア

10月6日にラーマン大学の合唱団と一緒に賛美することができ、とても感謝致します。

午後もラーマン大学と同志社グリークラブの演奏を見ることができ、とても素晴らしいパフォーマンスでした。みんながパワフルで歌っていて感動しました。やはりその美しい声を出せるなんて、きっと神様が与えてくれた賜物だと思っています。私もその時反省しました。今まで神様から頂いた賜物をちゃんと神様のために使っていますか?それとも無駄にしていませんか?、と心の中に問いかけました。「イエスさま、日々の生活の中で神様の御用のために私をお使いください。」とお祈りしました。

夜の演奏が終わった後、ラーマン大学のメンバーと一緒に食事に行きました。場所は大阪風月堂というお好み焼きの店でした。食事をしながら日本についていろいろ話していました。お好み焼きを食べた後、道頓堀の周辺を観て、光景写真をいっぱい撮っていました。

観光スポットのえびす橋に着いたら大人気のグリコ看板も撮りました。その後、帰る前にみんながお土産を買いたいと言ったから、最後の時間はドン・キホーテに行きました。ドン・キホーテで大体みんながキットカットの抹茶味を買いました。ドン・キホーテに面白いものやお菓子がいっぱいあり、みんな楽しい買い物ができました。

夜10時ごろ、みんなが島之内教会まで歩いて来ました。そこでラーマン大学の合唱団のみんなとお別れ、最後の挨拶を交わしました。みんながマレーシアに帰りたくないぐらい日本のことは大好きと言いました。とても短い時間でしたが、楽しかった一日でした。

編集後記

  • このところ急に冷え込んできて、やはりクリスマスを迎える季節なのだなあと感じます。大門先生に導かれて守る島之内教会のクリスマス礼拝が、今年で最後となるのは、心より残念です。でも大門先生にも教会員の皆様にも、心に残るクリスマス礼拝を守りたいと願っています。何につけても力の足りないことばかり嘆きがちなわたし達ですが、わたし達にも神様がこんなに豊かに与えてくださっているという、恵みに気づきたいと思います。この「島之内教会だより」23号にも、このようにいろいろな方々の原稿を頂くことができ、クリスマスを覚えて一層の感謝を捧げたいと思います。次号は3月に発行予定です。又、皆様の原稿をお寄せくださいますようお願いいたします。(編集委員:江口恵子、土橋薫)

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