島之内教会たより -2014年3月第24号発行-

「全てを益に変えたもう神様に委ねる」

牧師 大門義和

2008年4月に島之内教会に赴任した時に自分の最後の奉仕の場と決めていたので、自分の信仰の最後の仕上げのつもりで臨んだ。それを無限の可能性を秘めた愛する島之内教会で、「御言葉への聴従と祈りの生活」を通して、自分の信仰の再生と教会を主イエスの教会への再生への試みでもあった。

2008年から、毎年、「御言葉に聴従と祈り豊かな生活の実現」と「50人礼拝の実現」を宣教目標に掲げてきた。しかし、教会は最初から最後まで微動だにせず、共感、願い、祈りとはならなかった。その意味で、島之内教会での6年間は反省の多い牧会であり、主の前に、悔い改めなければならない歩みであった。

それでも、「御言葉への聴従と祈りの生活」を語り続けることによって、一人でも変われば教会が変わる。否、主なる神様が変えて下さると信じて歩んできた。また、「御言葉に聴従と祈りの生活」が、日曜日の礼拝だけの「教会生活」から毎日の祈りの「信仰生活」への成長も牧師の深い祈りであった。教会や教派を超えた「島之内祈りの集い」も始め、祈祷会も再開した。「教会生活」から「信仰生活」への成長を願っての試みであったが教会全体の理解への広がりは微々たるものであった。しかし、「御言葉に聴従と祈りの生活」を歩み始めていてくださる理解者が見え始めたことは大きな希望である。一人でも、見えないところで祈り始めて下されば、その信仰は必ず見えてくる。見えない机の引き出しの中を綺麗に保つと、当然、見える机の上も綺麗になる。その変化を見ることが出来る教会への成長を期待した。

「風韻」154号にも書いたが、私たちの牧会の45年間は、「恐れるな、語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。・・・この町には、わたしの民が大勢いるからだ。」(使徒言行録18:9~10)との御言葉に支えられ、励まされ、導かれてきた。

島之内教会が立つ、この繁華街のどこに「主の民」がおられるのだろうかと思い巡らしていた。心斎橋筋の大勢の人々を見てこの中におられるのだろうか。多くの人の流れを見つめていると、水を手ですくうような空しさを覚えた。

その祈りの中で、示されたことは、「会堂の貸出」であった。この音響の素晴らしい会堂の開放がこの町の「主の民」を迎えることが出来ると確信させられた。

それで、執事会の同意を得て、牧師の責任で「会堂貸出」を始めた。2009年は15組、2010年は47組、2011年は86組、2012年は89組、2013年は59組である。数の減少は、こちらの体力の関係で、練習だけの貸出を中止したからである。単に貸して献金だけを期待したのではない。「この町には、わたしの民が大勢いる」との御言葉を信じ、いろいろな矛盾を感じながらも、彼らこそ、「主の民」であると自分に言い聞かせ、受け入れてきた。彼らの「会堂使用感謝献金」(献金額は使用者が決める自由献金)はシオンルームや女子トイレの改修に始まり、教会の改修の大きな助けとなった。特に、女子トイレ改修献金をお願いしたら、予想より多くの方が献金して下さったので驚いた。「何か御用があればいつでもお手伝いします。」と言ってくださる個人、グループも少なくなかった。彼らが演奏会のために「島之内教会の名前と地図」を書いたチラシの何万人への配布は、ある意味では大きな伝道である。前の駐車場の人々にも助けられている。また、藤中泰兄のお孫さんたちとの出会いで、墓地の使用権もいただいた。礼拝だけでは見えないが、教会の階段を上って来る人々を見ていて、御言葉の通り、数えられないほどの主の民が大勢いることを教えられる。

また、礼拝はコンゴ、韓国、中国、台湾、インドネシア、モンゴル等の人々と守れることは島之内教会の特別な恵みであり、使命である。また、国内外の旅行者を迎える島之内教会の礼拝は「一期一会」の真剣さが必要である。

牧師として、説教等を通して蒔いた福音の種がいつか一人でも多くの人の心の中で芽が出て、花が咲くことを夢見ている。6年間の主にあるお交わりを感謝し、島之内教会と皆様の上に主の御加護をお祈りしつつ、神様にお委ねします。

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「大門義和先生の6年間」

和田純子

島之内教会にとって大きな出来事は「島之内教会墓地についての報告」に詳しいのですが、藤中墓地を島之内教会墓地として使用することが認められ、2010年4月27日に移転が完了し、同年6月6日感謝礼拝を捧げた事でした。先生と藤中家のお孫さん、上野道子姉(番町教会員)が信仰の友であったこと、大門先生が譲渡のために祈ってお働きくださって実現したことに不思議な神様のお導きを感じます。新しい墓地を私たち教会員で大切に守っていきたいと思います。(この墓地に母の納骨が出来て感謝です。)

教会の「有形文化財登録」に始まり、シオンルームの改修、長椅子修理、女子トイレ改修、牧師館改修、外壁・屋上の改修、補修と防水工事、3階ギャラリー、ホワイトルーム改修と教会が見える形で大変きれいになりました。祈りの家にふさわしい建物の維持管理をしていくことは私たちにとって今後とも大きな課題です。牧師自ら環境整備に手を付けその都度献金を呼びかけて、取組を具体的に示されました。皆で目標を持って祈りつつ成し遂げられたことは大きな喜びです。先生の実践し邁進する教会のリーダーとしての姿を見ました。「赴任した教会で、この教会に今何が必要かを見抜いて、素早く実践される」大門先生。これは先生の卓越した才能、賜物だと思います。その流れの中で会堂を再び開いてくださいました。教会の業としての「会堂貸出」なのだからと、牧師自ら大きな犠牲を払って下さいました。精神的、時間的また体力的にも大きな犠牲を払い、祈ってこの業をされたことを覚えたいと思います。

信徒にとって何より大切な、「御言葉に聴き、御言葉に生きるとは」どういうことか教えて頂きました。聖書の御言葉が日々の生活で生きて力を与えられるためには、祈ることが大切だとくり返されました。「礼拝は花、祈祷会は根。」「祈りを忘れたら主イエスの教会でなくなる。」と信仰の花を咲かせるためには根が大切で、枯れないように祈祷会の大切さを説かれました。先生自身よく祈られました。「執り成しの祈り」をと、くり返されました。生活の中で信仰を守ること、「教会生活」と「信仰生活」はちがう。ひとりで静かに聖書を読み、執り成しの祈りが出来る信仰が大切であることを繰り返し説かれた。「悩みがあるから、神様、助けてください。」と祈れるのだと教わりました。日々の祈り・聖書に聴く信仰生活があって神様に感謝し喜び溢れる生活ができるのだと思います。(朝15分聖書を読む生活がようやく2年目に入りました。)

私たち役員に思いが伝わらず、先生は何度もがっかりされたことがありました。自ら育ち、牧師の語る信仰の奥義に気付くことが少なく、いまだに誰かがしてくれる、牧師がしてくれる、との思いでいる私。自らが背負い一緒になって主の栄光の為に自らを捧げる信仰に至らない私だと思い知らされました。喜んで多くのものを捧げ、実践する信徒に、祈る信徒に変えられたいと願いっています。先生から教えられた、祈ること、日々聖書に聴くこと、自分の不信仰に気づき、ただ神に祈る信仰を持ち、島之内教会に多くの友を迎え、主に喜ばれる教会へと成長したいと思います。

今は解らないが先生が去られてから思い至ることが多々あると思います。どうぞ島之内教会の為にいつも祈っていてください。先生と奥様のこれからのお働きと健康を祈っています。

最後に個人的なことですが、2009年1月に息子が、2014年2月に娘が島之内教会で先生に結婚式を挙げて頂きました。また2013年9月に母が天に召されて島之内教会で葬儀を執り行って頂きました。先生の最初の年と最後の年に、家族にとっての大きな出来事が、島之内教会で先生にお世話になったことに心から感謝します。

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「光陰矢の如し」

暁キリ、暁瞳

初めて島之内教会に来たのは2011年でした。教会の兄弟姉妹が親切に接して下さって、大門牧師の説教を聴いて、心が打たれ、感動の涙が溢れていました。そして、その冬のクリスマスに洗礼を受けることになりました。それから島之内教会の教会員として務めさせて頂いてきました。

これまで島之内教会での思い出がたくさんありました、今思えば、すべてが神様の導きだったのでしょう。まず、聖歌隊員になれたことに感謝しています。実は音譜が読めないですが神様に力を求めて、皆さんのお助けで賛美歌をたくさん歌わせて頂きました。

2013年の冬、始めて受付当番になりました。朝、早く教会に来て、礼拝の準備作業からお茶の会が終わった後の片付けまで、慣れるまで時間がかかりましたが、普段から皆さんがこうやって毎週誰かが黙々とやってくれていることに気づかされました。これから自分も出来る限りのことをもっともっとしていきたいと思いました。

そして、初めてセイ子お母さんの自宅へ招かれた時、すごく嬉しかったです。日本人のお宅にお邪魔するのが初めてで、大門先生はお父さんのように、セイ子先生はお母さんのように接して下さって、あれから勝手に「お母さん、お母さん」と呼ばせて頂いています。セイ子お母さんが作ってくれた、ちくわの天ぷらが大好物で、実家に帰ってきた感じで甘えて作って頂きました。毎回お邪魔する度に、本当にホッとできて、心の拠り所です。

仕事のことや国の両親のことに悩んだりする時、聖書の言葉について質問がある時、周りに気になることがあったりする時に、いつも大門先生に相談にのって頂きました。「何があっても、人のことを批判しない、神様に答えを求めろ!神様のことを信じ切る!イエス様に従えばいい!」と大門先生が教えてくれました。この言葉を思い出す度に、悩んでることや不満などが吹っ飛ばされたようになります。

あっという間に3年が経ちました。大門牧師が居なくなることを聞いた時はショックでした。「教会は神様の聖殿であり、誰かのものではない」と気づかされました。私たちクリスチャンは誰かのために教会に行く訳ではない、神様に近づくために、神様を賛美するために行くことです。今までは先生に頼りすぎ、甘えすぎたかも知れないと反省しつつ、これからは教会の兄弟姉妹と一緒に島之内教会を支えていくべきだと思いました。

大門先生、いつも玄関前に水を撒いてくれたり、兄弟姉妹達のことを祈ってくれたり、毎週の聖句を張り替えることを忘れた時は黙って替えてくれたり、島之内教会のために長年働いてくれたことに感謝します。これからも時々相談に乗って頂くかもしれません。平日、自転車を泊めに行く時にも「先生居るかな?!」って、いつものように覗いてみちゃうかもしれないけども、先生に会えなくても、どうかお元気で神様の教えを人々に伝え続けて下さい。

「わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる」(ヨシュア記1:9)との御言葉を信じています。

「大門先生ご夫妻に」

小南須美子

神様が大門牧師を島之内教会に遣わされて6年たちました。
思い返せば、先生が、着任された最初の聖日、私が司会をさせていただき、緊張し震えたことを思いだします。そして礼拝も進み、最後の祝祷になったとき、先生の礼拝堂に響き渡る大きな声にびっくりし、聖霊に包み込まれるような感じになりました。

その後もお説教を聞く度に感激したり、反省したり、納得したりと。
先生は、ご在任中、私たちに豊かな説教を下さった他に、多くのお仕事を残してくださいました。数えれば限りありません。いつまでも島之内教会にいて下さるような錯覚におちいり、そのひとつひとつに感謝をしつつも、甘えがあったことを深く反省しています。

日曜礼拝以外もこの教会の立地による特殊な忙しさの中で精力的にことを成し遂げていただき感謝に堪えません。まして教会を皆様に使っていただくことにより、夜遅くまで残ったりと 多大なご負担をかけ、精神的肉体的に、たいへんなことだったと察します。

とくに、セイ子様に感謝しています。決して出しゃばらず細かいところに目が届き、暖かくって。牧師夫人としてこの6年間気が休まる時が無かったのではないかと察します。

神様が大門夫妻を島之内教会にお遣わしになったことを感謝します。

先生の説教を聞けなくなってもいつもおっしゃっているように ありがとうと感謝を忘れず、ごめんなさいと謙虚に、聖書を基とし、祈りある人生を送っていきたいと思っています。

「母の願いと先生と」

中村寛子

昨夏亡くなった母は、その2年前に亡くなった父とは同じ墓に入りたくないと、常々言っておりました。出来る事ならわたしと同じ墓に入りたいと言うのでした。イブ礼拝やバザーの時に島之内教会に来てはいたものの、受洗していない母が教会の墓に入る事は可能だろうか? 

わたしは大門先生に相談しました。先生はちょっと考えられてから、教会の「墓地規定」を持ってきてくださり、わたしには子どもが無い事を含め、「第4条(8)その他必要と認める事項というのがあるので、僕が牧師の間なら叶えてあげよう」と約束してくださいました。

その旨を家に帰り母に話すと、母は本当に喜びました。これで安心だと言うのです。

そんな話から数ヵ月後、母は帰天しました。大門先生の言葉を信じ、その通りになったことに、わたしも心底ホッとしました。執事会のみなさま、ありがとうございました。そしてなにより大門先生、本当にありがとうございました。

これからもセイ子さんとご一緒に、新しい生活にチャレンジされる事をお祈り申し上げます。

「大門先生に感謝」

藤原さおり

私たち「アンマークトシンガーズ」は、2010年より毎年、島之内教会でクリスマスコンサートを開催させていただいております。

この年の春、私たちはメンバーの交代等の関係で、あまり順調に活動ができていない時期でした。それでもやはり年末には、クリスマスコンサートをなんとか開催しようということになり、さて会場はどうしようという話になりました。メンバーの何人かが以前、島之内教会でのコンサートを聴いたことがあり、私たちもそこで是非コンサートをやってみたいということになりました。教会に問い合わせたところ、12月は教会の行事も色々とある時期にもかかわらず、快く教会をお貸し頂けることになりました。その後も日程の調整やオルガン使用の件で、本当に色々と大門先生にお骨折りいただき、12月19日、無事に島之内教会での初めてのクリスマスコンサートを終えることが出来ました。こういった状況でのコンサートでしたので、終了後に「素晴らしい歌をありがとうございました」と大門先生に声をかけて頂いたことは、本当にありがたく、また私たちの励みになりました。

そして昨年末には、4回目のクリスマスコンサートを無事開催させて頂くことができました。私たちにとっても、アンマークトシンガーズの演奏を応援して下さっている方々にとっても、島之内教会でのクリスマスコンサートが、少しずつ恒例行事になってきていることを本当に嬉しく思っています。

その他にも、最初のコンサートをきっかけに、他の演奏会で歌う機会を頂いたり、また私たちの定期演奏会には、大門先生がお知り合いの方を連れてきて下さるなど、島之内教会と大門先生との出会いはアンマークトシンガーズにとって、本当に大きな意味を持つものになりました。

また2012年、2013年の年末には島之内教会のクリスマス特別礼拝等で歌う機会を頂きました。私たちはクリスマスコンサートでも賛美歌を良く歌うのですが、礼拝で賛美歌を歌うというのはやはり何か違った感じがあり、教会に通う習慣の無いメンバーが多い私たちにとって、貴重な経験になりました。

この4年間、島之内教会のみなさんには本当に色々と良くして頂き、アンマークトシンガーズ一同、大変感謝致しております。特に大門先生との出会いは、我々にとって本当に大きな励みになりました。「賛美歌は神を賛美する歌です。どんどん教会で歌って下さい。」とおっしゃった先生のお言葉を胸に、また島之内教会で歌わせて頂けることを、心より願っております。

「私の信仰告白」

北村憲一郎

私の受洗は、クリスチャンの家庭に育ちながら、余りにも遅い受洗だと思います。

その原因として、私の幼稚園の園長が心にありました。幼いころより体が大きかった私はよく誤解されたのです。他人を宥めても、諌めても、全てがイジメと決め付けられ、よく叱られたものです。「キリスト教の牧師(園長)は全てを理解している人物」と思っていた私に大きなトラウマとなったのです。

高校・大学時代に祖母・祖父が帰天し、葬送式に参列した私は非常にすっきりとした気持ちになりました。父の言葉で、「神様に召され天国に送る時に涙はない。すがすがしく送ってあげよう。」と言ったことです。

島之内教会には、初代北村清兵衛をはじめとして、北村六兵衛、北村栄一、北村 勉と全てがその名の下にあります。

(1)讃美歌では、賛美歌494番「わがゆくみち いついかに」が愛唱歌であることを知りました。この詩には心に来る何かを感じております。
1番、わが行くみち いついかに なるべきかは つゆ知らねど 主はみこころ なしたまわん。そなえたもう 主の道を ふみてゆかん ひとすじに。
2番、こころたけく たゆまざれ ひとはかわり 世はうつれど 主はみこころ なしたまわん そなえたもう 主の道を ふみてゆかん ひとすじに。

(2)また、聖書ではローマの信徒の手紙15章7節、「だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れて下さったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい。」と記述された言葉です。

(3)私の妻である結香子が「いっしょに受洗を受けよう。」と力強く言ってくれました。

(4)二人が受洗まで導かれた背後に、ルカ福音書22章32節、「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」との主イエス様の御言葉のように、北村清兵衛をはじめとして、北村六兵衛、北村栄一、北村 勉の執り成しの祈りがあったことに気付かされました。

以上、4点を心に留めておき、妻と力を合せて、主イエスをキリスト(救い主)と信じて、5代目のクリスチャンとして恥じない祈りのある家庭を築きたいと思います。

「私の信仰告白」

北村結香子

仏教の家庭に育ち、宗教というものに深い関心はありませんでした。大学時代、親元を離れて、キリスト教が全てと言っても過言でもないアメリカで過ごし、日曜日に教会に行くことを習慣づけられました。

主人と出会い、クリスチャの家庭であることを知った時、大きな違和感はありませんでした。ただ、結婚式の素晴らしさはよく存じていました。義父にお会いし、宗教の話、島之内教会の話を聞き、素直に聞き入れることができました。クリスチャンの家庭に入るのだから、クリスチャンになるのが自然な姿とまで感じた私です。

聖書のローマ書10章9~11節に、「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。聖書にも、『主を信じる者は、だれも失望することがない』と書かれています。」この御言葉を、私に語られた主イエス・キリストからのお招きととして素直に受け留めたいと思いました。

主人は未だに受洗していないことも知り、それなら二人で受洗をと、昨年春に決意しました。

先日(1月18日)はここ島之内教会で素晴らしい結婚式をさせて頂き、大門牧師の力強い司式に感服した次第です。お世話になった大門先生が島之内教会を去られる前に、ぜひ受洗したいという気持ちを高めたのは、私の心にもう一つ大きな関係を残したい、そしてまた主人と同じ気持ちでいたいと思ったからです。

キリスト教の信者としては、右も左もわかりませんがローマ書10章17節の「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」との御言葉通り、主イエスをキリスト(救い主)と信じて、1日1日、信仰心を忘れず、祈りある家庭を築き、元気に楽しく過ごしていきたいと思います。

(北村ご夫妻は2014年3月2日の島之内教会で大門牧師から洗礼を受けられました。慶賀)

「ヒブル語(旧約)とギリシャ語(新約)」

上田一郎

毎週木曜日の「聖書に親しむ・祈祷会で3年前から、旧約第一巻、創世記(全50章)を、毎週1章づつ、出席者(8名位)一同で声を出して朗読。共に祈り、ヤット全章を完了。その後エゼキエル書(黙示的な預言書)学んでいるが、牧師の辞任により残念ながら、3月13日の33章で終わる。

創世記には、アダム930歳、セト912歳、エノク365歳(不死、生きたままで召天)そして、レメク777歳、ノア950歳と高齢長寿、意味不明、年齢の数字が列記されている。(永遠の生命、肉体の有限、天の祝福のしるし(?)

さて、エゼキエル書(48章)は内容文書がむつかしく、とても読みにくい。ただし、37章の「枯れた骨の再生、復活」は有名で、何回か読んだ。
ヘブル語原典、ギリシャ語(コイネー)を学びたいが、早くも人生のたそがれ、私も85歳、島之内教会での歩み、「夕ぐれにも光がある」(ゼカリヤ14:7)は、わが足のともし火である。

「基兄の思い出を語る」

片山永生(福岡警固教会)

兄の思い出を話せと言うことで、いろいろ遠い昔を思い出してみました。私は男三人兄弟の三番目で三つずつ離れています。一番上と一番下が女で計五人の兄弟姉妹です。わたしのすぐ上の兄は体を壊しておりまして、今日この場に参列できないのを本当に残念がっています。すぐ上の兄の名は活水といいます。この活水兄が基兄の思い出を話してくれと言うことで私が代わってお話します。

戦時中・終戦直後は、わが家は宮崎県の延岡市に住んでおり、すぐ上の兄、活水兄は小学5年から高校までの6年間のこの延岡時代のことを話しました。食べるものもろくに無い暗い時代でしたが、基兄とのいろんな思い出は、楽しい事ばかりが今思い出されるそうです。よくドイツ語や英語の歌を教えてくれて、一緒にハモレと言われてメロディとベースに分かれて歌ったりしたものです。そのおかげで、今でもすぐ上の活水兄は原語で歌えるそうです。又、基兄は趣味が多彩で、水彩や油絵をよく描いていました。中学の頃はスポーツも得意で、円盤投げや走り幅跳び、棒高跳びなど陸上競技をよくやっていたそうです。今でも尊敬する兄ですと言っておりました。

私の場合は、基兄とは年も離れており、一緒に遊んだという思い出はあまりありませんが、今でも記憶に残っていることは、終戦の年の6月29日、一夜にして延岡の街が米軍の焼夷弾攻撃で戦災に遭った時のことです。あわてて家の庭に掘ってあった防空壕に入って避難しましたが、私は真夏なのに暗い壕の中で震えていた時、焼夷弾の火がメラメラ燃えながら防空壕の入り口に転がり落ちてくるのを父と一緒に基兄が必死にスコップで土をかけて消し止めている姿を思い出します。ただ凄いなあーと基兄の事を思いました。成人してから今日まで、兄らしい優しい言葉や説教じみたことは私にはほとんど言いませんでしたが、弟と言うより子ども扱いの感じでした。私が会社の熊本支店に勤務中に熊本草葉町教会の長老の方が会社に突然見えられ、君の兄さんから「弟をよろしく頼む」とハガキをもらったので来たと言われ、「今度の日曜日から教会の礼拝に出席しなさい」と命令された時のことを思い出します。この時は数年前に父が亡くなっておりましたので、長兄の基兄が父親の役をしてくれているのかなあと思いました。その後、大阪、東京勤務となりましたが、在京時代にも自分の熊本花陵会の同僚の医師の三沢五郎先生にも兄は弟をよく監視してくれと頼んだのかどうか分かりませんが、初めてお会いした時、「不良の弟と言うのは君か」と言われてびっくりしたのをよく覚えております。

三沢先生が本当に私を弟のように面倒を見てくださって、健康の相談や、仕事の悩みなどを親身に聞いて下さいました。私は、この方に感化を受け、霊南坂教会で遅い受洗をしました。と言うことで私の人生の歩む方向を、基兄は自分が尊敬する先輩や、友人を介して見守ってくれていたのだなあと、今頃、初めて気付いている次第でございます。どうか基兄さん神様の御許で安らかにお休み下さい。 

   

こちらの島之内教会は、祖父・片山猪之吉が125年前、明治22年に伝道師としてご奉仕いたしましたはじめての教会であったとの記録が残っておりまして、わたしども片山家にとって深いゆかりのある教会であることに、今、思いを馳せております。そして長い時を経て、今日又こうして、皆様の温かいお見守りの内に兄を主の御許へと送り出させていただき、その縁(えにし)を覚え、深い感謝の気持ちで一杯でございます。

どうか、残されました遺族に対しましても、今後とも故人同様、変わりないご厚誼をたまわりますよう伏してお願い申し上げます。ありがとうございました。

(片山 基兄は島之内教会員で、2月14日に帰天され、16日に前夜式、17日の告別式を執り行いました。これは、前夜式での感話を記載させていただきました。片山基兄と御遺族の上に主の慰めをお祈りいたします。)

大門先生への感謝と編集後記

  • 大門先生のもとで発行する「島之内教会だより」がこれで最後となることに、万感の思いです。先生の熱い信仰に導かれながらも、遅々として歩まなかったわたし達に痺れを切らされたことを申し訳なく思います。大門先生はご着任早々に「俺は音楽はわからへん。」とおっしゃいましたが、実は大変よくいろいろな音楽に耳をかたむけ、音楽に関わる人々も支えてくださいました。教会の貸し出しにも、やはり多くの音楽家や音楽愛好家が申し込んでこられますが、それぞれの多彩な活動を支え、また時には教会への橋渡しもして下さいました。2年続けてクリスマス礼拝に奉仕下さった「アンマークト・シンガーズ」との出会いも、そのように大門先生が導いてくださったおかげです。若々しく優秀な音楽家達の助けを頂き、本当に豊かな礼拝を守れたことに、心より感謝しております。また、わたし達の教会にはいろいろな国の方が礼拝に参加して下さっていますが、マレーシアから初の演奏旅行に来日された「ラーマン大学合唱団」との交流も忘れがたいものがあります。マレーシアの若者たちと、暁キリさん&瞳さん、フィリップさん&デイジーさんを交えて楽しい交流ができました。これらの出会いや交流を決して無駄にせず、これからの島之内教会の活動にも活かしていきたいと願います。大門先生の撒かれた種は、必ずいつか芽を出すと信じます。先生の素晴らしい導きと共にあった6年間に心からの感謝を捧げます。また、多くの方々からお心のこもった原稿を頂きましたことにも感謝します。(編集委員:土橋薫)

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