2012年9月30日の説教要旨

「神様への感謝にあふれて」

コリントの信徒への手紙二 9章1節〜15節

経済的な困難にあったエルサレム教会を援助するためにパウロは、マケドニア州の諸教会(ピリピ、テサロニケ、ペレヤ等)やアカイア州の諸教会(コリント、アテネ、ケンクレアイ等)に必死で働きかけている。 

パウロとエルサレム教会とはそれほど深い信頼で結ばれていません。エルサレム教会は、パウロの伝道を懐疑的に見ていました。「サウロはエルサレムに着き、弟子の仲間に加わろうとしたが、皆は彼を弟子だとは信じないで恐れた」(使徒言行録9:26)。ガラテヤ書1:12〜2:1をみても、パウロ自身も、主イエスから招かれて使徒キリスト者となった時のことについて、ガラテヤ書1:12〜2:1で語っています。「わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、16 御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされたとき、わたしは、すぐ血肉に相談するようなことはせず、17 また、エルサレムに上って、わたしより先に使徒として召された人たちのもとに行くこともせず、アラビアに退いて、そこから再びダマスコに戻ったのでした。」「三年後、ケファと知り合いになろうとしてエルサレムに上り、十五日間彼のもとに滞在しましたが、ほかの使徒にはだれにも会わ ず、ただ主の兄弟ヤコブにだけ会いました。」「その後十四年たってから、わたしはバルナバと一緒にエルサレムに再び上りました。その際、テトスも連れて行きました。」

このように、私たちが想像する直接的な深い関係はなかった。それでも、エルサレム教会の経済的な困難さに対して、パウロが伝道した、マケドニア州の諸教会とアカイア州の諸教会に援助を競わせている。

パウロがエルサレム教会を金銭的に助けることに熱心だったのではありません。「神に対する感謝の念」(11)にパウロは満たされていた。援助や献金することが目的ではなく、それらを通して、主イエス・キリストの十字架と復活による救いへの感謝、喜びを失わないように、それらを通して神をほめたたえる人間(13)に成長することを願っていた。奉仕をすることによって、神様への感謝にあふれるキリスト者に、教会に変わって欲しいと願っていた。

「神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります」(8)。「彼は惜しみなく分け与え、貧しい人に施した。彼の慈しみは永遠に続く」(8)と詩篇122・9を引用している。旧約聖書を読んでいる者の心に残り、よく想起している御言葉の一つは歴代誌下25:7〜9である。南ユダのアマツヤ王は、戦いのために、イスラエルの兵士を10万人をお金で雇った。ところが、神の人が来て言った。「王よ、イスラエルの軍隊を同行させてはなりません。主はイスラエルの者、すなわちどのエフライム人とも共においでにならないからです。もし行くなら、単独で行って勇敢に戦いなさい。そうでなければ、神は敵の前であなたを挫かれます。神には力があって、助けることも、挫くこともおできになります。」アマツヤ王は神の人に言った。「イスラエルの部隊に払った百キカルはどうしたらよいのか。」神の人は答えた。「主はそれより多くのもの を与えることがおできになります。」と答えられた。

私たちの信仰は、私たちの生活を壊さない範囲での信仰になってしまっている。東日本の被災教会のために献金をしなければならないことは頭では理解しているが、自分たちの生活、教会の財政に影響しない程度しか出来ていない。それが、十字架と復活の神様への感謝のない生活であることに気づいていない。祈りを必要としない生活、神様を必要としていない生活になっていることに気付いていない。

パウロは、エルサレム教会を助ける決心をして、神様への感謝の心を取り返し、神様をほめたたえる信仰に立ち帰ることを私たちにも願い、期待している。

井戸水はくみ出せは、くみ出すほど、水はきれいになる。人に与えないで、溜めておくと井戸水は濁ってしまう。

自分で自分を豊かにする生き方ではなく、神様によって祝福され豊かにされる生き方を始めましょう。先ず神様のため、先ず困っている人のために捧げる生き方が神様に祝され、感謝できる生き方に変えられる。それは神様を信じているから出来るのです。

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