島之内教会たより -2015年6月第29号発行-

「主の名によって歩きなさい」

牧師 木戸定

使徒言行録3章1節以下に、足の不自由な男の物語が書かれています。

「ペトロとヨハネが、午後3時の祈りの時に神殿に上って行った。すると、生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日『美しい門』のそばに置いてもらっていたのである。」(1〜2節)

 生まれながら足が不自由であること、施しを乞うため毎日「美しい門」のそばに誰かに運んで来てもらっていたことから、この男の人は歩けないことが分かります。この人は歩くことができないから、家族や周囲の人たちも歩くことができない人間として彼と向き合い、関わっていたのです。
 ところが、この男性と出会ったペトロとヨハネは「主の名によって立ち上がり、歩きなさい」と言いました。聖書には、つぎのように記されています。

 ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり踊ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。 (6〜8節)

 生まれながら足の不自由な男が立って歩き出す!そんな馬鹿なことがあるはずがない!常識的に考えると、そうなります。
 しかし、ペトロやヨハネは彼が主の名によって歩ける可能性がある人間として見たのです。ここのところが大切なところだと思います。
 A「私は何の可能性もない人間である。だから、周囲の人たちも何の可能性もない人間として見、そのような人間として向き合い、関わる。」
 B「私は何らかの可能性のある人間である。だから、周囲の人たちも何らかの可能性のある人間として見、そのような人間として向き合い、関わる。」
 AとBとの間には大きな違いがあります。お陰さまで、私は今日まで牧師として神と教会にお仕えすることが許され、本当に感謝しています。そのように生きて来ることができたのは、教会の多くの方々、先輩牧師、またさまざまな方々が、そのような可能性のある人間として私を見、向き合い、関わってくださったからです。有り難いことだと思っています。
 顧みれば、主イエスは弟子たちがご自分を裏切ることをご存知でした。しかし、そんな彼らを、使徒としての働きをすることのできる人間として見ていてくださり、そういう可能性のある人間であると信じていてくださったから、彼らは主の名によって立ち上がり、主の弟子として命を輝かせることができました。
 私たちは、誰もが、このような主イエス・キリストの慈愛に満ちたまなざしのもとにあります。今日を生きる私たちには、どんな可能性があるでしょうか。
 先日、ご高齢のために礼拝に出席することが難しい某姉妹をお訪ねしましたら、「昨年は階段のところを、車いすを運んでもらったけれど、今度は自分一人で歩いて上がります」と大変にお元気な姿を見せてくださり、ご家族の方々を困らせておられました。教会を想う熱情に心打たれました。
 高齢になっても、どんな時でも、主イエスは私たちをいろんな可能性のある人間としてみてくださっていると信じるものです。希望を失わないで命を輝かせることのできる一人ひとりとして見てくださっています。慈悲深いまなざしに励まされ、一日一日を大切に生きるものでありたいと思います。


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「それぞれの出会い」

牧師 中島 哲也

40数年の牧会を隠退してから10年、過ぎ去った日々のことを時々思い出し、いまさら反省しても仕方のないことだが、その折々のことが気になって心が沈む。でも、仮にタイムスリップして修正できるとしても、また同じことの繰り返しか、それとも、もっと頭を抱えることになるかもしれない。それなら、その記憶をゆったりと受け入れること、そう思うと少しは気が楽になる。
 わたしの最初の赴任教会が島之内教会で、その後、但馬日高伝道所、丹陽教会、芦屋浜教会、そして、最後にまた、この島之内教会に戻ってきた。
ある地方の小さな教会で、クリスマス・キャロリングをしていた時、偶然、町で出合った二人の青年が、一緒にキャロリングに参加、それを機会に教会に来るようになり、そのうちの一人がいま、教会で中心的な働きをしているとか。
 阪神大震災後、芦屋浜教会の礼拝に一人のご婦人が出席されていることに気が付いた。被災され、心身ともに打ちひしがれていた時に、幼児洗礼を受けていたことを思い出され、教会を訪ねられたのである。それ以来、毎週欠かさず教会に出席されていたが、病を負い、晩年はすべてのことを感謝しつつ天に召された。
 わたしの若き伝道師の頃、島之内教会の礼拝出席者が100名以上と記憶している。高校生、青年諸君も大勢来ていた。当時、青年会の会長をしていた一人の青年のことを思い出す。前記のように、いろいろな教会を巡り回っていても、この青年のことがいつも気にかかっていた。それから約40年後、島之内教会に再び戻ってきたわたしの前に、突然、彼が現れた。その日、ご子息の墓参の帰途、なぜか心斎橋で下車し、懐かしい島之内教会の前を一度通ってみようと来たところ、教会前の掲示板にわたしの名前があったので、「自分の眼を疑いました」、と。再会を喜び合った。長い間、教会から離れていた彼は、いろいろな試練を味わってきたようだ。その後、毎週礼拝を共にしていたが、わたしの隠退後、彼の病いが悪化し、教会で葬儀が執り行われた。彼は教会に戻ってきたのだ。
 芦屋時代に阪神・淡路大震災に遭い、大きな被害を受けた。液状化現象で床が盛り上がり、そこにいるだけで眩暈を起こす。緊急工事に明け暮れ、心身ともに疲労が重なり、突然の心筋梗塞、入院即カテーテル手術を受けた。牧師と幼稚園園長の仕事を続けることが難しくなり、芦屋浜教会を辞任した。そのような時に、島之内教会から招聘のお話を受け、隠退を考えていたわたしは、たいへん悩んだ。何日も、何週間も悩み続け、結局、期限付きでお引き受けすることにした。なんといっても懐かしい教会。島之内教会での日々が、いま振り返ってみるとき、本当に楽しい時であったことを感謝している。そして、長い間、連れ添っている妻にも…。


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「ライプチッヒ・トーマス教会の礼拝」

河野まり子

昨年の夏ドイツ・ライプチッヒ市を訪れました。4年に1回の国際バッハコンクールを聞く目的でした。ライプチッヒは、あの大作曲家J・S・バッハが38歳から65歳で亡くなるまで過ごした都市です。ライプチッヒのトーマス教会の音楽監督としてバッハは毎週の礼拝のために200曲に及ぶ教会カンタータの作曲やオルガニストとしての奉仕、又合唱団や合奏団の指導等、多岐にわたる活動を精力的にこなしました。
 このバッハゆかりの地での2週間におよぶバッハコンクールも熱狂のうちに終わり、翌日が日曜日だったので、トーマス教会に出かけて友人とともに礼拝に参加しました。
 大きな石作りの建物で教会内にバッハのお墓もあり、いつもお花が絶えないようです。
 礼拝はバッハも演奏したであろうパイプオルガンの前奏から始まり(この音色を当時の人たちはバッハの演奏で聞いていたのかと思うと感慨深いものがありました)。
 続いてリコーダーのアンサンブルが心地良い曲を演奏を聞かせてくれました。礼拝を執り行うのは女性の牧師さんで、また彼女の声が朗々と響く良い声で大変印象に残りました。
 ヨーロッパの教会はこのように日曜日になると礼拝の場所として人々が祈り、神のみ言葉に耳をかたむけるのですが、礼拝のない日は観光客が見物に訪れたり、コンサートが開かれたりしているのがごく当たり前の日常です。
 私が幼い頃、毎年夏休みを過ごした祖父母の家は教会でした。
明治生まれの祖父は牧師でした。教会といってもごく普通の日本家屋です、広い畳敷きの2間続きの部屋は、普段は家族の生活の場所で、日曜日になると座布団を敷いて礼拝堂に変わるのです。小さなオルガンの音色に合わせてみんなで賛美歌を歌っていた光景は今でも鮮やかに思い出せます。
 礼拝の空間というのは、どんな立派な教会建築であっても、どんな貧しい小屋であっても、神様への敬虔な祈りの心があれば同じ礼拝堂に違いないと思うのです。
 教会で演奏会が開かれている時、きっと神様の豊かな恵みと慈愛に満ちた眼差しに見守られているのではないでしょうか?
同じ空間が日曜日の礼拝時には祈りを捧げる大事な本来の場所に戻り、私たちは豊かな恵みに満たされるように思います。
 そう考えれば、礼拝堂で何かをなすとき神様の豊かな恵みが誰にも等しく注がれることこそ大きな福音だと思えてきます。
トーマス教会での礼拝は言葉の壁があり理解したとは言えませんでしたが、心豊かなひとときでした。
 私たちの島之内教会も礼拝に訪れた人々に、又他の目的で訪れた人々に豊かな気持ちを感じてもらえるようになりたいと思います。

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「わが母教会 島之内」

山野 圭

 最初に島之内教会に行ったのは、小劇場のプロメテ公演の芝居でした。(毒薬とオールドミス?)そして1988年秋、又プロメテのスタディ公演を観るつもりで行った所、何だか様子が違う?!!
なんとプレイガイドジャーナル誌(「ぴあ」の様な雑誌、随分前に廃刊)のミスプリで ひと月間違っていた。
 それがたまたま水曜日だったので、礼拝堂のだるまストーブを囲んでCoffee Houseをやっていた。
当時DCS(宗教教育主事)をやっていてプロメテの劇団員でもあった、鎌谷(現福田)真理さん、当時の青年会員の青木陽一郎さん、角谷(現山田)和子さん達、西原明牧師と由記子夫人らが、迎えてくれた。
 このミスプリがなければ、礼拝にも行く事はなかっただろう〜。
(元々中学の頃、家の近くのCSにいったこともあり、興味はあった。)
それから、Coffee Houseに行くようになり、日曜の礼拝にもいくようになった。
島之内百年史にも書かれているが、(まだ洗礼も受けてないのに、西原明牧師の勧めもあり)1972年春、大学卒業と同時に、教会主事との名目で事務仕事(主に週報のガリきり)をやることになった。
毎週礼拝にも行っているし、明さんからは「もう洗礼受けませんか??」と、よく言われるが、イヤ!です・・・・・とー。
 そして真夜中のクリスマスも、第1回からお手伝いしていました。ボクは照明担当。そして1980年、島之内100年記念礼拝の西田晃牧師の説教を聴いて、「ボクが受け容れられているとか、思う以前に、すでに救われているんだ」と、思えたのです。
その説教で使われた詩が、「足跡」 Foot Printsでした。
 そして、教会の規則も何も知らないボクは、イースター礼拝の4.5日前に、「イースターに洗礼受けさせて下さい。」と、突然云ったのです。
 以前から、黒田さんが「洗礼受けるならイースター!」と云っておられたのが 頭にあって、受洗するならイースターと思い、このイースターに受けたかったのです!
随分あとで知りましたが、臨時役員会を招集して、役員会の承認を取ってくださり(その頃役員の川島さん、黒田さん、茨木先生ほかに、ご迷惑をかけました。)
 西原明牧師からは、信仰告白の原稿は書くように、とだけ云われました。ずっと拒み続けていたボクが、洗礼受けたいと云った事を、西原明牧師はホントに喜んでくださったのを、憶えています。
 35年前のイースター礼拝でした。週報のガリきりしていた頃は、Organistが主に薄さん、そして薄さんが足の調子の悪い時にピンチヒッターで来たのが、その孫で高校生の薫ちゃんでした。そして、薫ちゃんが日本に居ない間やってくれていたのが、伊佐ちゃん。
 関西室内楽アンサンブルでチェンバロ奏者のまりこさんが加わり、薫ちゃんの教え子橋本さんが加わり、とホントに贅沢なOrganistに恵まれていると思います。
 わがままを云って、いまだに籍はそのまま、週報も送っていただいています。
 5年前、脳幹出血で死に掛けた時は、西原由記子さん、西原悟・まさみ夫妻に、ひとかたならぬお世話をかけました。(薫ちゃんもOrganist協会の会議で上京の際には、見舞ってくれました!)
この5月3日には(今行っているMACFの礼拝で)悟のPianoと構成、薫ちゃんのOrganでの奏楽が実現し、感謝です。
 島之内教会には今も、3分の1くらいは古い方でボクも知っている方もおられ、やはりボクには、信仰の原点そのものです。
 いつも記名はなくても、封筒に一筆添えられていて、励まされています。
 島之内がそこにありつづけることが、何よりの証だと思います。
今後も、よろしくお願い致します。


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「地の塩、世の光」

阿部昌弘

「あなたがたの光を人々の前に輝かせなさい。人々があなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためでである。」マタイ5-16
塩が塩気を無くせば捨てられる。灯火を升の下に隠す者はいない、灯火は部屋中を照らすようにテーブルの上に置かれる。人の生き様が、神様を証しすると言われたイエス様。
キリスト教では御言葉には力がある、と言う言い方がありますが、その力を十分に示せないことがあります。何故なら、今日の御言葉の様に、言葉では無く輝くことができてい無いから。言葉が文字どうり、その力を発揮する様生き様で示す。それは、人は神様の御業を目の前に示されても、それが神様の恵みなのかわかる者は少ない。その事は創世記の初めから書かれている、こんな早くからかと思うほどに人は神様の事を判らない。
神様の完全性、全能性も言葉では判っても真には理解出来ない。疑問に思ってしまう。そんな事は有り得ない!100歳のアブラハムと90歳のサラに子供が出来るはずがない!現実に子供を与えられると、ただ笑うしかないとイサク(笑う)と名付ける。信仰の父アブラハムにしてそうだった。
神様から特別に選ばれて、神の民として強国エジプトから救い出されるイスラエルも、数々の奇跡を示されても紅海を二つに割りイスラエルの民だけが渡りきり、エジプト軍を海に沈められても、神様の直接示されたも契約の十戒でさえ直ぐに忘れて子牛を像として拝もうとする。自分の考え、思いから逃れられない。エジプトで奴隷だった取るに足りない民がアブラハムとの約束を守って救われる。なんと言う恵みでしょう。
しかし、人は神様を見失い、自身の思いを考えを優先し、上手くいくと自分を神様にさえ変えてしまう。イエス様に従っていた御弟子さん達もゲッセマネの園でイエス様が逮捕されると、蜘蛛の子を散らすように逃げ去ってしまう。十字架に掛かられた時にそば近くいたのは少数の女の人だけで、後は奇跡を示せとイエス様をなじる群衆だけだった。
なんと言う罪深さでしょう。不完全で一部しか知らない私達は、神様を理解出来ない。言葉ではどう語っていいのかも判らない。使徒信条に書かれてある事も難しい。全能の神様がどう全能なのか判らない。乙女マリアより生まれ?処女が子供を産みわけがない、死んで蘇り?そんな奴はおらんやろ?死んだら決して蘇らない。そう思ってしまう。言葉の持つ力の無さ弱さ。
しかしイエス様はキリスト者がこの世にあって地の塩、世の光となれと教えてくださった。そう、生き様で示す。後ろ姿で語る。そうでないと誰も信じてくれない。
もっともな事です、日頃の言動が悪い人がいくらいい事を言い忠告されても、人はお前が言うなとなる。言えた義理か普段から何してると返って避難されてしまいます。全くその通りでしょう。こうして聖書の言葉を告げ語る使命を与えられていますと、心から自分が相応しい者でない事を数多く示されます。思いと言葉と行いで日々罪を犯し、なさなければならない事をせず、これも大きな罪です、罪を犯し続ける。どうしようもない者なのですが、神様はこんな哀れな状態に人がある事を知っておられ、本当なら契約を守らない事で滅ぼしてしまってもいいような存在の人間を、憐れみ慈しみ愛せてくださっています。その独り子を、その罪の贖いの為に十字架にかけていくださったほどに。
そのイエス様の孤独と苦しみと絶望の功によってどうしようもない人の罪を贖う道を備えてくださった。ただ私達はイエス様こそ私の救い主ですと告白して心にお迎えすれば神様は甚だしい罪の縄目を解いて、救ってくださいます。聖霊を豊かに注ぎ与えて生き方を示し変えて下さる。


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