島之内教会たより -2012年9月第18号発行-

「真似て欲しい生き方を」

牧師 大門義和

人の人生で、良き出会いが大切です。良き人との出会い、良き書物との出会い、生き方を真似ることができる良き恩師、先輩との出会いを体験した人は本当に幸福です。

旧約聖書のイスラエルの王たちの多くは、父や祖父の生き方から学び、生き方を真似ている。列王記上を見ますと、「ヤロブアムの子ナダブがイスラエルの王となり、2年間イスラエルを治めた。彼は主の目に悪とされることを行って、父と同じ道を歩み、イスラエルに罪を犯させた父の罪を繰り返した」(列王記上15:25〜26)。また、「アヒヤの子バシャが王となり、その治世は24年に及んだ。彼は主の目に悪とされることを行って、ヤロブアムの道を歩み、イスラエルに罪を犯させたヤロブアムの罪を繰り返した」(15:33〜5:34)。多くの王たちは、父の生き方を正しいと思って真似ただけである。しかし、その生き方が、神様の前では罪となることもある。

他方、ユダの王としてアサが王位につき、父祖ダビデと同じように主の目にかなう正しいことを行い、アサの心はその生涯を通じて主と一つであった(列王記上15:9〜14)。また、アサの子ヨシャファトは、イスラエルの王アハブの治世第4年にユダの王となった。彼は父アサの道をそのまま歩み、それを離れず、主の目にかなう正しいことを行った(列王記上22:41〜43)。

子供にとって、見習うべき人生の師は親である。善か悪を考えているのではない。父と同じことを真似ているのである。その真似が、時には神様から祝福される結果となったり、神様から叱られる結果となる。

大きな社会問題になっている「いじめ」による自殺問題も、「いじめ担当の人」を置いて解決する問題ではない。子どもが真似ながら育ってくる「大人」の問題なのです。子どもの「いじめ」の責任は子どもにあるのではなく、子どもが真似ている大人の価値観、生き方こそ問題にされなければならない。

「水は方円の器に随(したが)う」という言葉がある。水は容器の形によって四角にも円形にもなるところから、人は環境や交友しだいで善にも悪にもなる。国民の善悪はリーダーの善悪によって形成されるという意味である。

民数記の時代も領土問題があった。北王国イスラエルのラモト・ギレアドがアラムに占領されていた。王は取り返すために、南王国ユダに連合をくんで戦うことを求めた。弱いユダは強いイスラエルに逆らうことが出来なかった。その時、ユダの王ヨシャファトがイスラエルの「わたしはあなたと一体、わたしの民はあなたの民と一体、わたしの馬はあなたの馬と一体です」(民数記上22:4)と答えた。 しかし同時に、ヨシャファトはイスラエルの王に、「まず主の言葉を求めてください」(5)と続けた。この言葉は神様の前に正しく生きるために実に大切な言葉である。

弱い信仰者は強い(傲慢な)信仰者から何かを求められますと断ることは難しい。時には不本意であっても賛同し、行動を共にしなければないこともある。信仰的決断を避け、不本意な同意は信仰を失うだけではなく、より弱い人を傷つけ、悲しませることになりかねない。

勇気を持って、「まず主の言葉を求めてください」と言えることが、自分自身と周りの人も、信仰に立ち返らせることができる。同時に、次の世代に「良き信仰の生き方、真似方」を残すことができる。

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「壁の向こう」

河野 まり子

「最近、身近な人、2人の死を経験しました。6月に義母が92歳で亡くなりました。晩年は病気のオンパレードでずいぶんしんどかったみたいです。週3回の人工透析、高血圧、膝の故障で車椅子で歩行も自分の意のままにならず、不自由な毎日でした。けれども、生きる意欲は死ぬ間際まで失われず、痛いとか、しんどいとかの言葉をあまり発することがありませんでした。  

生命力の強いその母が死の2日前に発した言葉や見せた表情には「生きるのがしんどい」と言ってるように私には思えたのです。亡くなった知らせを受けて会いに行って、見た顔の表情は忘れられなかったです。紛れもない元気な頃の義母の表情でした。穏やかで平安に満ちていました。「お義母さん、お疲れ様でした。」と心の中で思ったものでした。河野の家は神道で、人は亡くなると神さまになると聞きました。家の神、木の神、水の神々と一緒に義母は神さまになって私たち子供、孫8人、ひ孫8人の行末を見守ってくれてると思っています。

9月に入ってすぐに母方の叔母が95歳で亡くなりました。叔母も怪我や病気を乗り越えて長生きしましたが、晩年は脳こうそくで半身マヒになり、ことばや行動が不自由になりました。自宅で娘の至れり尽くせりの介護で生活に不満はなかったけど、時々お見舞いに行って見る表情はやっぱり眉間にしわを寄せてしんどそうでした。

前夜祭と告別式では奏楽を引き受けました。叔母を偲んで少し長めの曲を弾きましたが、彼女は喜んでくれたでしょうか?告別式は大和郡山教会で行われ、尾島先生のお話が心に残りました。人の人生には最後に死という壁にぶちあたるのですが、そこには扉があるのです。扉を開けると壁の向こうに神さまの世界があるらしいです。先に逝った人々が待っているそうです。まだ誰も行った経験がないのでどの様な世界かは知る由もありませんが、私はこの扉の話を聞いて、ドラえもんの「どこでも扉」を連想したのですが、なんだかワクワクした想いを持ちました。

二人の平和で安堵に満ちた死顔から、寿命を全うした人生では死は決して恐ろしいものではなく、この世の苦痛や苦悩を取り除いてもらえる、壁の扉を開くステップだと思えました。できることならその様な人生の終焉を迎えたいものです。

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「最近一番うれしかった事」

上田 一郎

(1)「聖書に親しむ祈祷」(毎週木曜日、10時)。
創世記をこの3月から、祈りのうちに朗読し、その深い真理を学んでいる。4000年以上前の神話、伝説ではなく、神のみことば、神の契約と審き、人間の罪と不信仰、まさにイスラエルの救済史が記され、モーセ五書、律法トーラーの第一巻に当る。全50章、いつ終るのか、これからの道のりは楽しいが長い。

(2)インドネシアの学生たちの旅立ち
Erhans Layton(24才)、Philip Edris(25才)来阪3年目。梅田の文化国際学院での日本語の学びを3月で卒業。無事大阪の会社に2人共就職した。彼らの信仰と祈り、これからのきびしい生活、異文化、異国での成長、遠くジャカルタの家を離れて単身。教会には日本人の若者の姿なく、話し相手なく、その点孤独、淋しい現実といえる。

スラマ パギ(おはよう)、シアン(こんにちは)、マラム(こんばんは)、

(注)インドネシア人口2億、世界一のイスラム国、但し人口の15%クリスチャン、千人から一万人の大聖堂が多い。

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「ドイツを訪ねて」

土橋 薫

この9月に北ドイツの有名な歴史的オルガンによるワークショップを企画し、久しぶりに本格的なヨーロッパの教会の響きを体験できた。

ドイツの北西部、北海までたった5キロ程、そしてオランダにほど近い、ノルデンという町の聖ルートガー教会に、アルプ・シュニットガーという、ヴァイオリンでいえばストラディバリのような、名オルガンビルダーが17世紀末に建てた、素晴らしいオルガンがある。このオルガンには、何とそのシュニットガー以前の16世紀半ば、あるいはもっと前のビルダーによるパイプも現役でその音色を響かせている。教会堂自体も現在の場所に建てられて、すでに500年を超えているとのこと。この地方はその昔大変裕福であり、大きな教会と立派なオルガンが競って建てられたのだ。

今回のワークショップの一環として、ノルデン近郊の村々に残っている歴史的オルガンを5ヵ所見学した。北ドイツの風景は、まっ平らな平野に森や木立が散らばり、その中にレンガ造りの教会の塔を中心として村が点在している。いくつかの教会の塔を見て、この辺りの教会はずいぶんずんぐりした塔を建てたのだなと思ったが、実はもともとずっと大きな教会堂とそれに見合った高い塔が建てられたが、経済の沈降と共にその教会が持ちこたえられなくなり、会堂を縮小し、あわせて塔も元の半分位の高さに小さくされたのだそうだ。古いオルガンが多く残っているのも、一つは裕福な時代の過ぎた後に建て替えられなかったという事もあるだろう。

時代とともに音楽の嗜好も変化し、ノルデンのオルガンも19〜20世紀にロマン派志向と工業的近代化の波にさらされ、また2つの世界大戦にはパイプの供出まで求められた。しかし、貴重な楽器の多くの部分は、疎開により保たれた。ノルデンの楽器は、1981年〜85年にJ.アーレントという奇才の手により、綿密な調査と研究を通じて、A.シュニットガーの時代の姿と響きを取り戻したのである。

ミーントーンという調律法、現在の標準より半音以上も高いピッチ、低音域は全ての音の鍵盤がそろっているわけではなく、並び方も異なる鍵盤…など決して弾きやすくも便利でもないオルガンだが、何と言ってもその音色とバランス、タッチの反応のよさ、はこれまでに弾いた現代の楽器は一体何なのかと思うほどに、衝撃的に素晴らしかった!

教会の長い歴史の中で、オルガンの果たしてきた役割は、今も生きている。滞在中にもちょうど秋の新入生のための礼拝で、1年生になる子供たちと両親、親族などがにぎやかに集う礼拝も行われていた。

わたし達の教会も、町の中で果たす役割の一つに音楽を活用していきたいものである。

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◎集会案内(日曜日はみんな一緒に教会へ)

・「主 日 礼 拝」:毎日曜日10:30

・「聖書に親しむ・祈祷会」:毎木曜日10:30

・島之内「祈りの集い」: 毎月第四金曜日10:30

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編集後記

  • 今回は、幸い複数の方から原稿を頂く事ができ、紙面を分け合う努力が必要になって、ありがたいことでした。これからも、皆様の教会によせる思いをお伝え下さい。(編集委員 土橋薫、林哲子)

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