島之内教会たより -2013年3月第20号発行-

「主イエスのみを信じる信仰の継承を」

牧師 大門義和

島之内教会は創立131周年記念日を迎えました。島之内教会の創立者の中には、千日前と深い関わりのあった人もいたのではないかと思います。千日前は1870年(明治3年)までは、処刑場と火葬場とお墓でした。明治3年に処刑場が廃止され、明治7年に火葬場と墓地は阿倍野(今の教会墓地のある所)へ移されました。

処刑場、墓地、火葬場が無くなってから、千日前の再開発が始まりました。当時は縁起が悪いので、一坪50銭のお金を付けても、貰い手があまりなかったようです。それで、行政は賑やかな場所にするために、見世物小屋等を許可しました。

千日前での商いで相当お金を得た人がおり、その中の何人かは島之内教会へ導かれたのではないかと思います。

人は誰と出会うか。何と出会うかによって大きく変わります。千日前の商いで、それなりの財産を得た人が、教会へ招かれて、主イエスと出会って、全く新しい人になって、主イエスの教会を設立する幻を与えられたのでしょう。

キリスト者を迫害していたパウロは、主イエスと出会って、迫害者から主イエスの伝道者に変えられました。その体験を、「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです」(フィリピ3:7〜9)と告白しています。

島之内教会の信仰の先達たちも、パウロと同じような体験をしたのではないでしょうか。彼らは心に迎え入れる「友」を変えました。お金という友を捨て、主イエスを迎え入れました。お酒という友を捨て、心を入れ替えて、主イエスを迎え入れました。この世の富という友をゴミのように捨て、主イエスを受け入れました。

創立者たちは1878年(明治11年)1月に初めて、現在の大阪教会の礼拝に出席し、同じ年の11月に家庭集会を始め、1880年(明治13年)の夏には会堂建設の材料の木材も買い求め具体化しました。しかし、笠屋町の火事で延びて、翌年明治14年に会堂を建築しました。

この3年という早さが何よりも、パウロと同じく、「キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています」との強い彼らの信仰が見えてきます。その心に主イエス・キリストを唯一の友とし、主イエス以外のものは、ゴミに等しいとの強い信仰告白が見えてきます。

彼らの信仰と比べて、現在の私たちの信仰はどうだろうか。彼らと同じように、私たちも主イエスをキリスト(救い主)と信じています。彼らは、心に詰まっているこの世の富を捨てて、主イエスのみを信じ切った。他方、私たちの信仰は、主イエスを信じる以前の全てを捨てることなく、主イエスも信じる信仰になっていないだろうか。「主イエスのみ」を信じる信仰と「主イエスも」信じる信仰は大きく違います。信仰の質が誓います。

彼らは、主イエスを信じる信仰によって、自分が変えられたことを喜びました。他方、私たちは、自分たちの生活が変えられることを望まないし、変わることを嫌っていないだろうか。主イエス・キリストを知る喜びで、それ以外のものを捨てることが出来た信仰が先達の心に宿っていました。他方、私たちの信仰は、何も捨てることが出来ずに、その上に、信仰をプラスされることを願っています。当然、最初に捨てるのが信仰になってしまいます。

信仰とは、創立者たちのように、心に詰まっているこの世の富や名声を捨てて、主イエス・キリストを心の真ん中に迎え入れ、新しく生きることです。この世の富や名声がいっぱい詰まった心に、どんなに真剣に主イエスをお迎えしようとしても、先ず、主イエスがこぼれてしまう。それが戦後の日本の教会の姿です。

日本の家では、小さくても「客間」を造った。客を迎える部屋で、その部屋で子供が入ったり、遊ぶことは許されなかった。私たちの心に主イエス・キリストをお迎えする部屋があるだろうか。主イエスをお迎えできないほど、この世の富で満ちていないだろうか。私たちにとって、必要な宝物であっても、神様が御覧になれば、ゴミ屋敷と言われるかもしれません。

島之内教会の創立者たちは、主イエス・キリストを知ることの偉大な価値のために、商売もすべてを捨てました。私たちも、私に必要不可欠なものは、「聖書と讃美歌と祈り」であり、他のものはなくても良いものと言える信仰の道を前進しましょう。「この世の富も主イエスも」信じる信仰から、「主イエスのみ」を信じる信仰の継承者となる決心をしましょう。

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「恐れることはない私と共にいる神!」

岩木景美

今日、韓国の礼拝を捧げる事が出来た事に、神に感謝しています。

韓国にはあちこちに十字架が目立ちますが、教会は約37985位あるといわれます。神学校は30校位で、純福音教会は45万人の信者が礼拝を守っています。

教会の礼拝は、毎日早朝礼拝が5:00〜あります。韓国の教会の原動力になるのは、朝の礼拝にあるといわれます。1月1日0時の新年の礼拝は、子供たちもいっぱい参加し、新年の希望や夢を神様と共に強く感じられます。

主日礼拝は、時間によって礼拝と讃美礼拝があります。水曜礼拝、金曜の礼拝等があります。礼拝に成功すれば、人生が成功すると思っています。主日礼拝等には、大統領や指導者の為においのりを必ずします。祈りの力を強く信じています。

ここでエピソードを紹介します。前KAL(KOREAN Air Line)、CaptainのSin(シン) in(イル) Duk(ドク)

航空宣教師の話を紹介しようと思います。50年間飛行しながら1万人を伝道した話です。別名『ハレルヤ キャプテン』とも言われています。サイパン行きの飛行機の中での出来事です。61組の新婚夫婦と、39名の一般乗客が乗っていました。本当に幸せな乗客がほとんどで、このような仕事は初めてのことでした。サイパン付近には熱帯低気圧があり、暴風雨でしたが、着陸の15分前に機関士から『ハイドロリ』(タイヤを上下する油圧の装置)の故障で、タイヤを自動的に下ろす事ができず、油が全て漏れてしまい、手動で操作するしか方法がありませんでした。操縦を副機長に任せて、機関士と祈ることしか出来ませんでした。飛行機に雷が落ち、室内灯も消え、飛行機の中は真っ暗で、泣き声と悲鳴しか聞こえませんでした。15分くらいで電気は復旧しました。2人は泣きながら一生懸命祈りました。すると、神の声が聞こえたような気がしました。イザヤ書41:10『恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。驚いてはならない。わたしはあなたの神である。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる』の言葉は、以前にも経験した言葉でした。

神の声は聞いたけれど、前と何も変化はありませんでした。私は勇気を出して機関士に、もう一度手動着陸装置を操作するように指示しました。機関士は諦めたようにハンドルを回しました。すると、さっきまでビクともしながったハンドルが回りました。それは、神の奇跡でした。2回半まわした時に、前輪が出てきました。しかし、メインギアが出てこなくて心配でしたが、7回半回したとき、メインギアが出てくる「コンッ」という音が聞こえました。私はマイクを持って乗客に声をかけました。「乗客の皆さん、私はキャプテンです。全てのタイヤが正常になりましたので、心配しないで下さい。」「今日、この飛行機には、神様が一緒に居て下さいました。」隣の副キャプテンは仏教信者でありましたが「本当に神様がタイヤをおろして下さったのでしょうか?」と聞き、私は「あなたがとなりでずっと見ていたではないか。」その時の副キャプテンはアメリカで神学を学び、牧師になりました。飛行機がサイパンに着いた時に扉を開けましたが、乗客は誰一人機外に出ることなく、機長が出てくるのを待っていました。153人の乗客1人1人と抱き合い、手を握りながら「神を信じなさい。神が私たちを奇跡的に助けて下さいました。」全員、生き延びた感激で、涙を流していました。

その日は、神を信じる人も、信じない人も、皆、神が生きておられるという真実を体験した、奇跡の日でした。コリアンサンデー(2月17日)

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「復活 命の始まり」

黒田正純

1963年4月14日、50年前の復活祭、春の光が私の目にまぶしく、光の粒子が私の周りを、踊り弾けているよう〜あの時の美しい春の日を今も、時々思い返します。

前年のクリスマス礼拝、友人が一緒に洗礼を受けようと言ったのを私は断わりました。クリスマスに洗礼を受ける事は、当時の私には何の意味も持たなかったのです。

古い私が死んで、全く新しい命として、生きる、このことのために、復活祭の洗礼以外、当時の私には考えられなかったのです。

19歳の頃の私は、心身共に疲れ切っていて、絶えず死の思いにとらわれていました。それまでの、7年間、学んで働いて、どちらにも全力を尽くしながら何とかなると思って生きてきましたが、自棄の思いから、自分に救いはないと結論を出しかけた危険な年齢でした。

キリスト教が、イエスの復活を伝えなければ、私は洗礼を受けなかった、恐らくキリスト信者にもならなかっただろうと思っています。当然、仏教徒にもなりません。

受洗後、二度と19歳の時のような、死の思いに囚われることはなかった。洗礼の日に私は、死んだのですから、二度目の私の死は、神のみもとに帰る時以外にないのです。

21歳の洗礼から、50年、命を与えられ、恵みと奇跡の年月のように現在、受け止めています。絶望と失意の日々、破滅の入り口に立ったかなと、今、思い返すとそのような時もありましたが、洗礼後のそのような危機も、死の思いに囚われることなく、恵みによって命の道に置かれたのです。置かれた〜私の力でなく、置かれたと思います。

カソリック信徒の井上ひさしさんが作詞した、釜石小学校の校歌に出会いました。

津波の避難所で、この学校の子供達は、この校歌を合唱しました。

いきいき生きる いきいき生きる
ひとりで立って まっすぐ生きる
困ったときは 目をあげて
星を目あてに まっすぐ生きる
息あるうちは いきいき生きる
はっきり話す はっきり話す
びくびくせずに はっきり話す
困ったときは あわてずに
人間について よく考える
考えたなら はっきり話す

しっかりつかむ しっかりつかむ
まことの知恵を しっかりつかむ
困ったときは 手を出して
ともだちの手を しっかりつかむ
手と手をつないで しっかり生きる

「星を目あてに」は、私は、神 、主イエス・キリストの導きと読んでいます。

「まこと知恵を」は、“青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ”そのような知恵であるでしょう。主イエスの“復活”この言葉に力を与えられ、この言葉の中に無限の力と恵みの宿る源流を見、それが私の命の始まりであることを、50年前の美しい春の一日と共に思い返しています。

年古りて 復活祭の 赤子なり

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「復活の奇跡を信じて」

江口恵子

「主イエスのご受難を覚えて何かを断って、何かを新たに始める決心をして、主イエスの復活に向かって歩み直しましょう。」

神様は教会週報のこのメッセージを通して私を導いて下さいました。その導きとは、「自分の経験と知恵で考えることを断って、キリストの僕として神様に喜ばれる選択をする決心」です。

姉の入院があり、仕事では業績悪化が進み収入の激減がありました。自分の経験や知恵で考えると最悪の状態です。

しかし、神様は、なぜこの状況を私に与えて下さったのか? 神様のご計画をすべて私たちが知ることは出来ませんが、必ず意味がある。

自分を捨てて神様に、ただより頼む信仰、世の常識では考えられない信仰に奇跡を信じる大切さを教えてくださったのだと思います。神様が私に用意して下さっているご計画がいかに素晴らしいものであるか、とても楽しみです。   

断つことも決心して歩むこともとても難しいことです。いかに自分に信仰心がないかを思い知らされながらの歩みです。

懺悔の祈りを捧げながらも、同じ過ちを繰り返しては、懺悔の祈りを繰り返す日々です。しかし、神様はそのような私にも豊かな恵みと導きを日々与えて下さいます。

「神様、主イエスの復活を私たちが心から喜びを持って迎えることが出来ますように、どうぞお導き下さい。アーメン」

「水野源三第2詩集 "主にまかせよ汝が身を" より」

ある朝
枯草の中にそっと咲いた
すみれの花が
わが胸に呼び起こす

主イエス様が
墓の中から出てこられた
あの朝の
あの喜びを
主イエスにならって
自らの言葉ではなく
神のみ言葉のみを語りし
主イエスにならって
自らの意見のみを語ることなく
み言葉のみを語らせ給え

自らの心ではなく
神のみ心のみを行いし
主イエスにならって
自らの利益のみを求めることなく
み心のみを行わさせ給え

自らの栄えでなく
神のみ栄えのみを求めし
主イエスにならって
自らの誉れのみを求めることなく
み栄えのみを求めさせ給え

み手を伸ばしてとらえ給え
魂の父なる神様
あなたの声を聞かずに
勝手に生きる魂を
み手を伸ばしてとらえ給え

魂の父なる神様
あなたのみ愛を受けずに
孤独に悩む魂を
み手を伸ばしてとらえ給え

魂の父なる神様
あなたのみ旨を知らずに
誇り昂ぶる魂を
み手を伸ばしてとらえ給え

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編集後記

  • 今年度最後の島之内便りを発行する事ができ、心より感謝いたします。3月号は間に合わないかと思いかけましたが、皆様からのすばらしい信仰告白である原稿を頂き、いつもにもまして復活祭の喜びを分かち合えることになりました。島之内教会も、新たな気持ちを持って新年度に向かっていきたいと願います。(編集委員:土橋薫、林哲子)

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