2012年3月11日の説教要旨

「神の霊の導きに従う」

コリントの信徒への手紙一 2章1節〜16節

パウロはエリート中のエリートでした。聖書についての知識は同世代の誰にも負けない自信を持つ程、熱心に、真剣に聖書を学んでいた。自信を持って、優れた言葉と知恵と話術をもって説教をしていたのでしょう。しかし、パウロはアテネの町での伝道は、「そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。」(3節)のように、衰弱し、自信をなくし、恐れと不安に襲われるほどの失敗で、コリントへ逃げて来た。

アテネ伝道の失敗、挫折を通して、パウロが気づかされたことは、伝道には、優れた言葉も、人間の優れた知恵も要らないということであった。「イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。」(2節)と語っている。私たちの人生で、大切なもの、なくてはならないものは一つである。「十字架につけられたイエスは私のキリスト(救い主)。」この一点である。

ルカ10:38以下に、マルタとマリアのお話があります。主イエスをお迎えした2人ですが、マルタは接待のために働いていました、ところが、マリアは主イエスの足もとに座って、主イエスのお話に聞き入っていた。マリアを叱りたいマルタに、主イエスは「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。」と諭された。

 

人が学ぶためには、真似る人が必要です。「学ぶとは真似る」ことなのです。若い者には、人生の生き方を真似る良き見本が必要です。そのためには、年配者は、身辺を整理し、主イエスの「必要なことはただ一つだけである」との御言葉への答えを出すことが大切です。周りの人を喜ばせ、迎合する生き方ではなく、無くてならないものは、「聖書、祈り、讃美」であることをはっきりさせる生き方です。信仰とは、単純なことです。神様は独り子を十字架にかけてまで、私を愛し、赦し、祝福し、永遠の命へと導いてくださることを信じ切ることです。捨ててならないものは「主イエスがキリスト(救い主)である。」との告白が信仰である。これ以外のものは、捨ててもいいものであるとの決心が信仰である。

若いうちは、多くのものを捨てられない。まだまだ足りないと思う生活である。その時代は、信仰を大切にしたいと思いながらも、信仰よりこの世の必要なものを第一とする生活です。礼拝を守りたいが守れないような矛盾を抱えて生きる時が多い。その矛盾の体験は悪いことではない。

しかし、昨年の3・11で、どんなに大切なものでも、最後は頼りにはならないことを私たちは見せつけられた。言葉を変えれば、この世で生きのびるために何が必要かを考えるのではなく、神様の所へ帰る準備に入ることです。「生きる」ことを第一としないで、神様のもとへ帰るべき備えである。この世の喜びを捨てて、十字架の主イエス・キリストへの信仰を握りしめて生きる決断をしなければならない時がある。「十字架のイエスのみ」という決断をしなければ、家族への信仰の継承はあり得ない。主イエスより、大切なものがあれば、家族はその大切なものを選びとって生きて行くのは当然である。

勿論、十字架の主イエス・キリストのみを信じて生きる道の選択は、喜んで出来ることではない。笑われ、見下げられ、孤独で不安で怖れを覚える中での決断である。だから、祈りの生活が始まる。祈りを必要とする生活が信仰生活である。

信仰生活が神様に祝福されているかどうかは、私の生活に「祈り」があるかないかで明らかとなる。また、パウロのように、祈りの生活を通して、主の御言葉によって励ましを受ける必要がある。
自分一人の信仰生活も、家族への信仰の継承も、私たちの努力では不可能です。「 わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、“霊”と力の証明によるものでした」(4節)。神様の導きが必要です。人に頼り、人に失望した時が人生の終りの様に思い込む人がいる。終わりではなく、神様と共に歩き始める恵みの入口にたどりついたのです。祈りある人生の始まりなのです。

今日の教会が人々に躓きを与えているのは、人の知恵と経験による信仰に支配されているからです。この世の知恵は信仰を必要としません。否、この世の知恵には信仰は邪魔物です。 「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心にも思い浮かびもしなかったこと」(9節)を、3・11に体験させられた。それは私たちを破壊させるものであった。一年前の悲しみ、苦しみ、絶望をどこかで受け入れなければならない。それは同時に、私たちではどうする事も出来ない絶望をも、一瞬に希望へ変えられるかもしれない。主イエスの十字架の贖いは単純に喜べることではない、私の罪のために死んでくださった、神の痛みを、3・11の痛み以上に感じなければならない。神様の十字架の愛を通して、東日本の被災者にも神様の霊の導きを祈りましょう。

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