2010年7月24日の説教要旨

「主が心を開く」

使徒言行録 16章

イスラエルの民がエジプトの奴隷であった時、彼らの嘆き、祈りを神様は聞き入れてくださり、イスラエルの民をエジプトから神様の約束の地カナンへ上ることをお許しになった。指導者の選ばれたのがモーセである。モーセは何度も断りますが、神様は怒るようにモーセを立てました。神様はモーセにエジプト王ファラオにイスラエルの民を去らせてくれるように言えと命じた。同時に神様はファラオ王の心をかたくなにし、モーセの願いを拒否させた。

私たちの人生でも、思い通りになることもたまにはあるが、思い通りにならないことのほうがはるかに多い。願わない道を選ばされることも多い。そのような時、モーセに命じておられるのも主なる神様であり、ファラオに命じて邪魔をさせておられるのも主なる神様であることを忘れてはならない。

私に都合の良いことが起これば、神様に感謝し、自分の願わないことが起こると感謝を忘れ、神様を疑い始める。それは幼稚な信仰である。良いことも悪いことも神様の御手の中で起こっている。願い通りのことだけが神様の恵みではない。よく聞く証があります。「病気になった。お祈りをした。病気が治った。神様、感謝します。」その通り感謝である。そのようにならない時もある。「病気になった。お祈りをした。それでも、病気が治らない。」こともある。それは信仰が足りないのか、不信仰なのか。決してそうではない。良いことも悪いことも、神様の御手の中で起こっていることを忘れてはならない。

今朝の使徒言行録16章を見ますと、彼らはアジア州で御言葉を語ることを聖霊から禁じられた。また、ビティニア州に入ろうとしたが、主イエスの霊がそれを許さなかった。私たちは信仰を持ってすることは全て神様に祝福され、受け入れられると思うことは傲慢である。私たちが信仰を持って神様のために、教会のためと確信できることも、神様からは拒否されることも沢山ある。ファリサイ派の人々も、自分たちの信仰を当然、神様に祝福されるものと

の確信していたが、主イエスから偽善者と叱られた。昨日、許されたことも、今日は許されないこともある。だから信仰者はその日その日の「霊の糧」を頂きつつ歩まねばならない。

信仰にはベテランも新人もない。昨日の御言葉で今日生きてはいけない。日毎御言葉の前に静まって、神様の導き、聖霊の導きを求める時を持つことが信仰生活である。

神様の祝福の実現は自分の一生の中で起こるとは限らない。神様がアブラハムに祝福の地カナンを与えると約束されたのは紀元前1900年頃。そして、カナンの地にたどり着いたのは紀元前1200年頃。実に700年後である。その間、奴隷の400年間があった。信仰は一人で走るマラソンではない。駅伝である。子供へ、孫へ、曾孫へと神様の祝福の約束のタスキを渡しつつ100年後、200年後の世界、教会を夢見つつ生きることが成熟した大人の信仰である。

パウロとシラスは、獄中にあっても、愚痴も言わず、賛美を歌って神様に祈っていた。ここに信仰者の真の姿がある。困った時、不安を覚える時、希望を失った時、私たちがなすべきことは、聖書の御言葉を聴くことと賛美と祈りである。なぜなら、私たちが、願うことも、願わないことも神様の御心である。また、主がリディアの心を開かれたように、私や家族や隣人の心を神様が開いて祝福してくださるように執り成しの祈りと讃美が信仰生活では不可欠である。

地震で助け出されたパウロとシラスは看守の「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか」との問いに、二人は、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」と答えている。先ず、私たちの生活が、「主イエスを信じきる生活へ踏み出すことが求められている。

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