2012年4月29日の説教要旨

「祈る者が祝福される」

コリントの信徒への手紙一 7章1節〜16節

7章からは、コリントの教会の人々が、コリント教会の創立者であるパウロにいろいろなことを相談したのでしょう。信仰は人間の心の問題であり、信仰の考えが違えば、一緒におれない難しさがあります。服の形や色などの好き嫌いならば、気にしなければ、教会での1時間や2時間は何も苦痛ではない。しかし、信仰に関わることは、同じ会堂の中で同席することが苦痛であったり、気にするなといっても気になります。

「風韻」を読んでいて下さる、全国の信仰の友から、毎日のように、いろいろな相談、悩みの電話があります。自分の教会のことは自分の教会の信仰の友に言えないので、私たちに電話をして、心にたまったストレスを発散しているようです。私たちはあなたのゴミ箱ですから、なんでもはき捨ててください、と話しています。

人間の冗談には、半分の本心が含まれています。また、人の悪口や欠点を批判する人がいますが、その批判はその本人が持っていることなのです。また、批判しているようで、あこがれているという逆の現れでもあります。

幼稚園の子どもの声も、隣人には騒音でしかなくても、孫が入園すると天使の声に変わることがある。子供の声が変わったのではない、隣人の心が変わったのです。教会でも礼拝を静かに守りたいと、子供の声などを強く嫌っていた人が、孫が与えられて教会へ連れて来ると、静かさを主張されなくなります。人間はそれほど変わりやすい存在です。

パウロは具体的な問題の相談を受けました。まず、結婚の問題です。パウロは裁判官になって、問題を裁いているのではありません。当時は、主の再臨が近いと信じていました。だから、神様の共に生きる決心をしていた人々の中には、結婚は良くないと考えている人も多くいたようです。独身を貫いたパウロに結婚しない生き方を支持してもらおうと相談したのかもしれません。パウロは独身の自分の立場を正当化していません。結婚しない人も肯定し、結婚している人も肯定しています。未婚者ややもめが結婚しないことも、結婚することもどちらも肯定しています。また、未信者との結婚も肯定しています。また、離婚も認めています。実に曖昧に思えます。 

パウロの信仰の基本は、「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが益になるわけではない。「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、わたしは何事にも支配されはしない。」(6:12)です。もう1つは「平和な生活をおくるようにと、神はあなたがたを召されたのです」(7:15)です。

言葉を変えれば、パウロはあなたがどちらの結論を出してもいいのですよ。しかし、それはあなたの願いや希望ですか、それとも、よく、祈って考え、神様に導かれた結論ですか、と問い、神様はあなたに、平和な生活、すなわち、祝福に満ちた人生を送って欲しいと願っておられるのですよ、といつも教えているのです。

パウロは主イエスに召される以前はキリスト者を迫害していた。主イエスに召されて伝道者になった。人間は迫害者にも、擁護者にも、どちらにもなる自由を与えられている。その中で、自分のしていること、自分の語っていること、自分の思っていることは、神様の召しにふさわしい道ですか、神様に祝福される道ですか、よく考えて結論を出し直しなさい、と語っているのです。

祈ることを忘れた生活は、人の悪口で満たされる。祈ることを忘れたら、主イエスを十字架にかけたように、弱者を苦しめる道を歩むことになる。「平和な生活をおくるようにと、神はあなたがたを召されたのです」。それにふさわしく生きる道は、聖書の御言葉に導かれ、祈る以外にはない。私たちの前には、正しい道と悪の道があるのではない。聖書の御言葉に静聴し、祈りある生活を選択するか、自分の知恵と経験に頼る、神様への敵対の道しかないのです。祈る者が祝福され、御言葉に従う者が神と共に歩むことが出来ることを忘れない生活をしましょう。

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