2010年7月17日の説教要旨

「教会の主語は神様」

使徒言行録 15章

この15章から、教会の中心が、エルサレム教会からアンティオキア教会へ、主役がユダヤ人キリスト者から、異邦人キリスト者へと代わった。同じキリスト者でありながら、ユダヤ人キリスト者は、自分たちの過去を捨て去ることが出来ない。それは誰もが持っている保守性である。ユダヤ人キリスト者は「割礼」を絶対必要不可欠なものと理解を変えることができなかった。それに対し、ペトロやパウロやバルナバは割礼を受けていても、いなくても、神様は同じように愛し、祝福し、赦しと救いを約束していてくださる「事実」を受け入れ、強く語った。

重要なことは、「主語」である。ユダヤ人キリスト者は「私」が割礼を受けているから、あなたもと強制した。ペトロたちの主張は、「主語」は神様である。ペトロは異邦人を汚れた民と信じきっていたが7節以下で、「神」はわたしをお選びになった。「神」は異邦人にも聖霊を与え、受け入れられた。「神」は彼らの心を信仰によって清め、私たちと彼らとの間に何の差別もなさらない、と神様を主語で語っている。

私たちのキリスト教信仰は難行苦行して勝ち取った信仰ではないのでいつも甘えがある。だから何か課題を課そうとする。主イエス・キリストを信じるなら、これを守りなさい、これも学びなさいと言いたい誘惑に負けそうになる。それは神様が不完全で、自分が神様を補わなければならないとの傲慢な姿である。

ユダヤ教の伝統を引きずっているエルサレム教会と、伝統から自由な異邦人教会の会議がエルサレムで開かれ、主イエスの教会の姿が明らかになった。それは、「わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、彼ら異邦人もおなじことです」(11)との信仰である。信仰は主イエスの恵みが全てである。

会議で決まっても、問題は解決しない。教会の歴史と共に、律法主義的な考えと、ただただ主イエスの憐れみと恵みによる救いの福音主義的な対立がある。古きものを守る人と新しいものを生み出す人の戦いが人間の歴史である。それはどちらが正しいかの問題ではない。絶対正しいものはこの世にはない。同時に、絶対間違っていると言い切れるものもこの世にはない。全ては相対的なものである。教会は、裁判所のように、善が悪の判断をするところではない。なぜなら、人間の業の中の善も、神様から見れば、全ては「悪の中の善」でしかないからだ。

信仰の世界では、「私はこのように思うとか信じている」という確信はあまり意味がない。大切で意味あることは「聖書の御言葉を通して、神様が私にこのように教えている、このように命じている」との証です。サムエルのように、僕は聞いています、主よ、お語りください」と神様が主語で、私が聴く目的である関係が信仰者の姿勢である。 人生では、私が願っていないことが次々と起こってくる。私が主語である限り、不満は尽きないでしょう。私たちの信仰生活では、主イエスが祈られたように、「アッパ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行なわれますように。」(マルコ福音書14:36)との祈りが不可欠である。

私たちの信仰は見えないようですが、見える形で現われる。神様を主語にし、自分を従うものに徹するとき、私たちのような者でも、人を励まし、慰め、希望を与える(第1コリント14:3以下)者に変えられる。神様を主として、自分を従わせ、人に希望を与えられる者に新生しよう。

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