2010年5月2日の説教要旨

「神様に聴従する」

使徒言行録 4章

ペトロたちは、大祭司、議員、長老、律法学者たちの集まったイスラエルの最高議決機関の裁きの座に立たされた。彼らは、復活の主イエスを宣べ伝えているだけで、大祭司や律法学者や議員を批判していない。これは大切な姿である。人を批判したり、人の悪口を言ったりすることは主イエスの教会らしくない。彼らとは違う、一緒にしないで欲しいと言う態度は主イエスから偽善者と言われたファリサイ派の姿である。

ペトロたちは自分の力で偉い人々を説得したり、論破しようとしたのではない。聖霊に満たされて語った。主イエスについて、「あなたがたが十字架につけて殺し」(10)と言い切り、「ほかのだれによっても、救いはえられません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」(12)と宗教的権威者の前で、主イエスこそキリスト(救い主)と信仰告白している。

神様を信じて生きるとは、自分の全てを無くてよいものとし、神様のみを無くてはならないものと考えることである。神様の絶対化と人間の相対化である。

私たちも、今、持っているものを、失ってはならないもの、絶対必要なものと考えてしまいますと、真実より実益を優先してしまう。利得を優先すると信仰の道から離れていく。私たちにとって、聖書の御言葉を絶対化し、その他のものを捨てる勇気も必要であり、それが信仰と言える。

勿論、信仰だけでは、この世の生活ができません。人間は矛盾を抱えて生きている。衣食住が必要であり、お金も必要である。本来必要でないが、必要であるものもある。しかし、信仰者は天国の故郷へ帰るべき存在であることを忘れてはならない。この世のものはすべて、役立たない時が来ることを忘れてはならない。

私たちは長く生きることだけを考えますと、捨てることが出来なくなる。また、妥協し、人を恐れ、長いものに巻かれて生きてしまう。生きることを考えるために、死ぬことも忘れてはならない。明日がこの世の自分の最後の日であると考え、無くてならないものは何か。絶対必要なものは何かを思いめぐらすことも必要である。神様の元へ帰る者にとって必要なものは、神様の赦し、祝福、贖い以外に何もない。

恐れを知らないペトロたちに、権威ある人々は、これ以上、主イエスの名を信じる者がおおくならないように、「決してイエスの名によって話したり、教えたりしないようにと命令した」(18)。ペトロたちは、「はい」と言って、先ず釈放を考えてもいいのに、「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前にただしいことかどうか、かんがえてください」(19)と大胆にも語っている。この世の権威や権力を恐れて、鶏が鳴く前に3度も、主イエスをしらないと言った弱いペトロがなぜ、これほど強くなったのか。ペトロたちは、全てを失い、死に等しい体験と、主イエスの復活によって新しく生きることを体験した。全てを失っても、復活の主に全てを委ねて生きることの喜びを味わった。

無限大の神様につながっておれば、湧き出る泉につながっているのと同じである。湧きあがる泉があるのに、こっそり、ビンに水をためておくことの方が滑稽である。初代教会は、主イエス・キリストを信じること以外に何も必要なものはないと確信し、告白して歩み始めた。主は失うもの以上の恵みを持って報いて下さる。

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