2010年4月11日の説教要旨

「聖霊に導かれて」

使徒言行録 1章

十字架にかけられる前の奇跡を起こされた主イエスや復活後の主イエスを信じることはそれほど難しいことではない。しかし、十字架にかけられた弱い主イエスを信じることは難しい。群衆はもちろん、弟子たちでさえ、失望し逃げて行った。主イエスの十字架から墓までの最後を見届けたのは、主イエスの母マリアとマグダラのマリアたち数人であった。信じられなくなってもなお信じ続けた人が一人でも、二人でも存在することが信仰の命である。

パスカルは人間の宇宙、無限を思考する偉大さと、一滴の水からできている弱さ、悲惨さを、「人間は考える葦である」と表現した。偉大さと悲惨さ、優しさと残酷さ、愛する心と憎む心、強さと弱さ等の両面を人間は持っている。信仰と不信仰の両面を私たちは内に持っている。

主イエスが逮捕され、十字架に架けられ時、弟子たちや多くの信じる者の心から、信仰の心が消えていった。主イエスの復活の知らせを聞き、また、復活の主にお会いしたことによって、彼らに信仰の心がよみがえった。不安が希望に変わった。弟子たちは再び集まり始めた。それは弟子たちが変わったのではない。十字架の苦難の主イエスを見たら、信仰をなくし、復活の主イエスを見たら、また、信仰を得たのである。

何を見つめるかによって、私たち人間は、信仰者にもなり、不信仰者にもなる。大切なことは、私が何とつながっているかである。見つめるもの、出会うものによって、私たちはどうにでも平気で変わるいい、加減さを持っている。

私たちが曲がりながらでも、信仰を持ち、教会につながっている背後に、主イエスのお祈りの支えがある。「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ22:32)とペトロに語られた御言葉は、今、私たちにも語りかけられている。私たちの信仰は、この主イエスの「執り成しの祈り」によって支えられている。

主イエスは、私たちが信仰をなくさないように祈っていて下さると同時に、「兄弟たちを力づけてやりなさい」と教えている。人を励ますこと、人を力づけること、人に希望を与えることがキリスト者の使命でもある。

復活の主イエスは再び集まって来た弟子たちに、神の国について話し、食事を共にされ、そして「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いていた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によって洗礼を授けられるからである」(4)と教えられた。

水の洗礼は、どこででも、好きな教会で牧師から受けることが出来る。しかし、聖霊による洗礼はエルサレムである。弟子たちにとってエルサレムとは、主イエスが十字架にかけられたいやな場所、行きたくない場所、思い出したくない場所であった。主イエスは私たちに、最もいやな場所、逃げ出したい場所に立つこと、留まることを求めている。主イエスが十字架につけられた場所に、葬られた墓に立ち続けたマグダラのマリアたちの姿が教会の原点である。

教会にはもう一つ大切なことがある。「彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた」(14)。教会が主イエスの教会であり続けるために最も大切なことは「祈りの交わり」を形成することである。「神様の約束を信じて、心を合わせて祈って待つ」心を持った人が家庭に、教会に一人いることである。聖霊に導かれて、苦い場所に留まり、信じられない時にこそ、御言葉の約束を信じて、祈って待てる交わりの形成が主イエスの教会である。

このページのトップへ戻る