2010年5月9日の説教要旨

「キリストに向かって」

使徒言行録 5章

使徒言行録を学んでいますように、主イエスを救い主と信じる初代教会は、「心を合わせて熱心に祈る」教会であった。また、「信じた人々の群れは心も思いも一つにして、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた」教会であった。また、民衆全体から好意を寄せられていた。

この理想的に見える初代教会が、この5章の「アナニヤとサフィラ」事件で短期間のうちに崩れたのでしょうか。そうではない。教会は乗合バスである。いろいろな人がいる。ファリサイ派の人々は正しい人だけを集めようとしましたが、主イエスは違いました。主イエスは、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マタイ9:13)とはっきり教えている。

教会にふさわしくないと思うような人がいても、信じられない人がいても驚くことはありません。天使の集いにもサタンがいる。「ある日、主の前に神の使いたちが集まり、サタンも来た」(ヨブ記1:6)。

アナニヤは売った土地の代金の一部を持ってきて、全部だとごましました。彼らの行為についてペトロは「サタンに心を奪われて、聖霊を欺いた」(3)と言います。また、「あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ」(4)とも語っている。

4章の最後のバルナバのように、畑の売却代金を全て捧げて、愛と尊敬を得たかったのでしょう。同時に、自分たちの生活のことを考えて、多くを残して、一部を捧げた。アナニヤとサフィラの心には神様の向き合って生きたいとの願いと、自分たちの生活を守りたいとの思いがあった。私たちも、誰の助けも要らない、誰の援助も受けたくないと思っている。その心を一番喜ぶのは神様ではない。実はサタンである。誰にも頼らない思いの中に、神様にも頼らないことが含まれてしまう。私たちが、神様に頼ることを忘れること、すなわち、祈ることを忘れることをサタンは願っている。偽善は神様を信頼せず、自分の力に頼る姿である。

教会は、主イエス・キリストの十字架と復活の恵みに対して、先ず、神様への感謝を忘れてはならない。島之内教会が「登録有形文化財」に指定され、プレートを付けた。私は、ヴォーリズ建築事務所に相談し、先ず、最高のものをお願いすると60万円でした。結果的には、3万円で終わりました。私は、先ず、教会の財力で出来ることよりも、教会にとって最高のものをいつも提案したい。最初から、私たちの出来ることを考えていたら、教会はいつもアナニヤとサフィラの信仰に留まり、バルナバの信仰は生まれてこない。本当がこうでなければならないが、出来ないとの、弱さ、ふがいなさ、不信仰さを自覚することが信仰には大切である。

聖書は正しい人間になれ、善人になれと要求していない。ありのままの自分を認めなさいと教えている。バルナバと同じように出来ない自分を認めなさいと教えている。アナニヤとサフィラの代金をごまかした姿は、人と向き合って生きているのであって、神様と向かい合っていなかった。主イエス・キリストを信じて、委ねて、向き合って生きることが信仰生活である 私たちはどのような不安や絶望が予測されても、恐れることはない。全てが神様の御手の支配下にある。主イエスのみが唯一の助け主である確信をもって生きることが信仰である。神様はその時々に、必要な助け手を送って下さる。

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