2012年8月26日の説教要旨

「欠けた器に盛られた宝」

コリントの信徒への手紙二 4章1節〜18節

アテネ伝道に失敗したパウロが逃げるようにコリントの町へ来て伝道を始めました。その時のことをパウロは、第一コリント2:1〜3で書いている。「兄弟たち、わたしもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした」。

キリスト者となったパウロの生涯は、最後まで、教会の仲間から直接に、間接にいろいろ批判され、中傷され、苦悩に満ちていた。

パウロが信仰の仲間を含め、人間に期待すれば、いつも失望を与えられた。人は誰でも、誰かに期待したい、誰かを頼りたい、誰かに認められたいと思う。しかし、パウロはことごとく裏切られた。失望し、精神的に衰弱する中で、導かれたことは、「イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めた(第一コリント2:2)との結論であった。

主イエス・キリストの十字架と復活を通して、神様が愛していて下さるとの確信がパウロを支えた。人に捨てられても、人に裏切られても、パウロは落胆しなかった。パウロが見つめていたのは、主イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリストのみを見つめて歩んでいた。

この決心ができるまでは、直接、批判してくる人々に悩まされました。それ以上にパウロを悩ませた人々がいた。人を陰で使って批判する卑劣な隠れた行為に悩まされた。悪賢い人に悩まされた。神様の言葉への聴従も、祈る生活が出来ていないに、神の言葉に聴従しているかのように平気で語る人々に悩まされた。パウロはノイローゼの様になった。

人様から批判された時、誰も、その人の批判が無くなることを願う。しかし、批判から解放されることはまれである。パウロは、人に期待することを諦めた。人に左右される生活と決別した。神様の前で正直に生き、人々がどんなに批判しても、気にしないで、ただ十字架の主イエスのみを見上げて生きる決心をした。

それでも、パウロの心の内には、人々が自分をどのように見ているのか、評価しているのか心配であり、気にかかることであった。主イエス・キリストを宣べ伝えることの不安、恐怖の中で導かれたことは、「わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです」(5)との結論であった。

主イエス・キリストへの信仰は、「主イエスを信じます」との告白に留まることではない。パウロが、「わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです」と教えています。キリスト教信仰は自分一人では完結しない。信仰が自分一人の信仰生活でよいのであれば、私たちは苦労をしない。神社仏閣のように、人に会いたくなければ、夜中に一人で行けばよい。

だが、キリスト教信仰は、時を同じくして、共に聖餐台を囲む交わりである。なぜなら、「イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです」。私たちが家庭で一人だけキリスト者であっても、それが目的完成ではない。キリスト者は人に仕ええ、人を主イエスの祝福の座まで導かなければならない。家族の救い、家族への神様の祝福を祈り続けることが信仰生活では大切である。夫はだめだ、妻はだめだ、子供はだめだ、孫はだめだと思うことは、自分だけの信仰になってしまっている。それには、神様の祝福を心から必要としていない自分がいる。

苦悩の中で祈るパウロに、主イエスは、「あなたは自分自身を宣べ伝えているのですか、それとも主であるイエス・キリストを宣べ伝えていますか」(5)と問われた。そして、主イエス・キリストを宣べ伝えているなら、人々があなたをどのように思っても、どのように批判しても気にする必要はないでしょう。主イエス・キリストを宣べ伝えているなら、あなたへの批判は、実はあなたへの批判ではなく、主イエス・キリストを批判していることなのですから、何も気にすることは無いのですと導かれた。

信仰者の使命は自分が褒められることではない。こんな欠けた土の器に、神様の宝を委ねて下さる神様を褒めたたえることが信仰者の務めである。人に捨てられて当然な土の器であっても、並外れて偉大な神の賜物を預けていてくださる。正に奇蹟である。

私たちの信仰も、銀行が財産が無く、誰にも信用されない者の保証人になってくれたようなものである。「四方から苦しめられても行き詰まらない」(8)。何故か、神様が保証人としていて下さるからである。「途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」(8)。何故か、神様が共にいて下さり、全ての保証人の義務を神様が果たして下さるからである。

パウロは様々な苦しみを体験した。そのことを通して、コリント教会の人々の何人かは神様に向きを変え、豊かな恵みを受け、感謝の念に満ちて神に栄光を帰するようになることをパウロは願い祈っている。神様に向き直ってくださる何人かの人々が現れた。それを神様の働きとして感謝している。

私たちの家族や友人や知人が主イエスに向きを変えてくれることを日々の真剣な祈りとしなければならない。また、信仰に生きることは、「外なる人」が衰え、「内なる人」が日々新たにされることである。神の国へ持って帰れないこの世の物欲を一つ一つ捨てさり、御言葉を豊かに宿して、永遠の栄光に向かって再出発することが、私たちの「死と復活」です。家族や次の世代に受け継ぐべき唯一のものが主イエス・キリストへの信仰であると確信している人がキリスト者である。

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