2012年4月15日の説教要旨

「赦された者らしく生きる」

コリントの信徒への手紙一 5章1節〜13節

教会は古き自分と共に死に、キリストと共に新しく生きる儀式として洗礼を位置づけてきました。だから、日本でも、お酒やたばこを断ってから、洗礼を受けることを当然のように考えてきた教派や教会もありました。古い生活を捨てて、信仰をもって、新しく生きることは言葉では出来ても、簡単なことではない。

今日の聖書では、コリントの教会の不道徳なことが語られています。町の不道徳なことを問題にしているのではなくではなく、主イエスを救い主と信じて、教会の交わりに加わったクリスチャンが、古きものを捨てきれないことをパウロは問題にしているのです。

6節から、古いパン種をきれいに取り除きなさい、と勧めています。出エジプト記13:3〜7を見ますと、「モーセは民に言った。『あなたたちは、奴隷の家、エジプトから出たこの日を記念しなさい。主が力強い御手をもって、あなたたちをそこから導き出されたからである。酵母入りのパンを食べてはならない。あなたたちはアビブの月のこの日に出発する。主が、あなたに与えると先祖に誓われた乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ヒビ人、エブス人の土地にあなたを導き入れられるとき、あなたはこの月にこの儀式を行わねばならない。 七日の間、酵母を入れないパンを食べねばならない。七日目には主のための祭りをする。 酵母を入れないパンを七日の間食べる。あなたのもとに酵母入りのパンがあってはならないし、あなたの領土のどこにも酵母があってはならない。』と教えています。

奴隷から解放された出エジプトの出来事を忘れないために、七日の間、酵母を入れないパンを食べねばならない。酵母を入れないパンを食べるだけでも、苦労でありますが、たった、七日目のために、「あなたのもとに酵母入りのパンがあってはならないし、あなたの領土のどこにも酵母があってはならない。」と厳しい掟でした。酵母は、彼らにとってパンが主食であるから、七日経てば、どこの家庭でも必要、不可欠なものです。七日だけだから、納屋に隠して置いておこう、川の向こうに隠しておこうと考えがちですが、それは許されなかった。「あなたのもとに酵母入りのパンがあってはならないし、あなたの領土のどこにも酵母があってはならない。」全てを一から新たにしなさいと奨められています。今日のように、ドライイーストがあるわけではなく、自然の酵母を手に入れることは大変苦労されたことでしょう。

旧約聖書も新約聖書も、一貫して、古い生活をストップさせ、全く新しい歩みをしなさいと語り続けています。子供の頃、お正月の朝、枕元に、下着から、靴下、服まで全てが新しいものが置いてあって、それを身に着けて、「新しい年を迎えた」と強く意識させられました。

パウロは、クリスチャンと自負しているあなたの生活は、異邦人の生活とどこが違うのですが、何が変わったのですか。クリスチャン以前のあなたと何も変わっていないのではありませんか。主イエスの名により、主イエスの力をもって、主イエスの霊に従って歩んでいると自負していますが、古いパン種を何一つ捨てていないのではありませんか。この世の人々とクリスチャンと自負しているあなたがたの間に違うことがあっていいのに、何も違わないでしょう。と語りかけているのです。

聖なる民とは、他の人々と違う物を持っている、違うことをしているという意味です。パウロは教会の外の人々の行為を批判しているのではありません。教会の中の人々の生活が、教会の外の人々と何も変わっていないことを批判しているのです。コリントの町に人々の生活ではなく、教会の中の、主イエスを信じる人々の中に、(11)、みだらな生活、強欲な者、偶像を礼拝する者、人を悪く言う者、酒におぼれる者、人の物を奪う者と付き合うと語ります。言葉を変えれば、コリントの教会は信仰について語り合うところまで成長していなくて、信仰以前の問題が渦巻いていたのです。それは、今日の教会も変わりません。強欲な者とは、誰よりも自分中心的で、人には、もうないよ、と言いながら、親しい人には取っておいてあげたよ、と人を見て態度が変わる人です。結果的には、自分が得することを第一になってしまう生き方です。偶像を礼拝する者とは、サムエル記15:22〜23、サムエルは言った。「主が喜ばれるのは、焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり、耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。23 反逆は占いの罪に、高慢は偶像崇拝に等しい。

他宗教や他の人の生き方を見下す高慢が偶像崇拝なのです。これは、「人を悪く言う者」に通じます。信仰は、人様のことをとやかく言うことは、かならず悪口になってしまいます。人をありのままの姿を受け入れることです。そこに、私の判断を加えますと、必ず批判になります。それは初代教会から内に持っている、古いパン種です。人の物を奪う者とは、これはさまざまな問題がありますが、何にもまして、感謝をもって捧げた一人一人が献金を神様からお預かりした宝物として誠実に関わらないと、神様のものを奪う危険性は常にあります。

第一コリント3:9.3:16〜17で、「わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです。」

「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。」とパウロは教えています。パウロはもっと突き詰めれば、「あなたが神の神殿であり、あなたの言動によって、人々は、主イエスを、教会を判断するのですよ。」と語りたいのです。

信仰は、人を正してあげようと思いますと、信仰は間違ってしまいます。「人の振り見て我が振り直せ」との言葉がありますように、人の信仰を批判しないで、認め、自分はどのように生きるのかを学ぶことです。聖書を読まないクリスチャンや祈らないクリスチャンを見ても、批判しないで、それがその人の信仰としてありのままを認める。しかし、私はクリスチャンとして何を守り、何を捨てるかを学ぶ機会にすべきなのです。クリスチャンは、人を直接見ない。聖餐台を通して人を見る。即ち、主イエス・キリストの十字架と復活によって、赦された者、愛されている者、祝福を頂いている者として、人を見直すことがクリスチャンの姿です。信仰は、「私と神様」の関係であって、人の信仰が気になると、私に信仰が狂い始める。戦後の教会の一番大きな間違いは、人のことばかり気にして、自分の信仰を見失っていることです。

こう一度、クリスチャンとして、守りぬくもの、棄て去るものをはっきりさせて、一人一人が教会の核になりましょう。

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