2010年6月27日の説教要旨

「私たちの人生を導く神様」

使徒言行録 12章

ローマ帝国の支配下で、ローマ帝国によってユダヤの王となったヘロデ王は、南部のイドマヤ出身である自分が受け入れられるかどうかの不安を持っていた。

ヘロデ王はユダヤ社会で気に入られようと、キリスト者を迫害し、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した(2)。そのことで、ユダヤ人に喜ばれたので、もっともっとユダヤ人に喜ばれようとして、キリスト教会の中心的人物である、ペトロを捕らえ牢に入れた。敵の敵は味方と言われるように、ヘロデ王がキリスト者を捕らえ殺すことによって、ユダヤ人がヘロデ王を王として認めた。本来、神様を畏敬して政治を司るべき王が、ユダヤ人の支持を得るために、神様より人を恐れた政治をした。

パウロは、「今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、何とかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか。もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません。」(ガラテヤ1:10)と教えている。

人に迎合する生き方は、川上から川下へ流れるように、なんの努力もいらないし、誰にでもできる。他方、神様を畏敬し、神様に喜ばれる生き方は、川の流れに逆らって、下から、上へ上るに等しい。神様を第一とする生き方は、自覚、意識、選択、決断、祈りを忘れたら出来ない。祈りを忘れると、自分を喜ばせる道、人に迎合する道に落ちてしまう。その意味で、神様に喜ばれる道、信仰の道は戦いでもある。他人との戦いではなく、自分自身との戦いである。礼拝を守ることも、献金することも、奉仕することも、自分自身との戦いである。宮殿に向かうことは何の苦労もいらないが、主イエスの居られる馬小屋に向かうことは信仰的な決断が必要である。主イエスと共に生きることは、十字架を背負う道、行きたくないところへ向かう道、気の進まない所への道である。人に喜ばれる道は、常に最も弱い人々に苦痛を与える。

十字架を背負う道は、「生きる」ことを考えていたらできない。むしろ、「死」を考えることが必要である。どこで、なにをして、神様の御元へ帰るかを考え、最後に一つだけでも、キリスト者らしいことをして天国へ帰ろうとの思いが必要である。

ヘロデ王は、王として生き延びることを考えた。自分が生きるために、ヤコブを殺し、ペトロを捕らえた。私たちも、生きることを願うと、人を傷つけ、人を悲しませてしまう。主イエスは自分が生きること、生き延びることを考えたのではなかった。むしろ、貧しい人に、困っている人に、罪人に生きる喜び、愛を与えて、自ら(主イエス)は死んでいった。

ペトロが捕らえられたことを知った教会は何をしたのでしょうか。「教会では彼のために熱心な祈りがささげられていた」(5)。これが教会のあるべき姿です。あわてず、全てを神様にお委ねして、祈っていた。教会は神様に祈ることが出来るという宝を持っている。教会の力は祈りである。祈りが信仰の力、教会の生命線です。

「ペトロは二本の鎖でつながれた」(6)。それほど厳重であっても、神様が共にいてくだされば、神様の御心であれば、どんなに堅固な牢屋も無きに等しい。無力に見えるペトロも、神様が共にいてくだされば、誰も危害を加えることが出来ない。私たちも子供や孫のことで、何かをしてやる必要はない。すべきことは家族や子どもや孫のために、神様の祝福を祈りだけである。神様は私たちの祈りと涙に必ずお応えくださる。神様は私たちを祝福の港へと導いていて下さる。祈って、祈って、神様の時を待つことが信仰生活である。

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