2012年4月22日の説教要旨

「代価を払って買い取られた者」

コリントの信徒への手紙一 6章1節〜21節

パウロの言葉を表面的に見ると、クリスチャンがこの世の裁判に訴えてはならない。この世が教会を裁くのではなく、教会がこの世を裁くのです、と語っているように思える。カトリック教会がヨーロッパを支配した中世のように、教会が一段高いところから、この世を裁くとパウロは考えているのだろうか。既に学んだローマ書13章でも、パウロは教会もこの世の権威に従うべきであると教えている。

どんな組織でも、強い人が弱い人を責め、認めず、組織から追い出そうとして訴えます。パウロの言葉の裏に隠れているのは、教会へ招かれた弱い人々が教会の中でもいじめられていること、教会の外部の人々の間で恥をかかされることに怒りである。主イエスの十字架と復活を感謝して受け入れたあなた方は、何故、弱い仲間を見捨てるのですかと教会の指導者、役員、実力者に怒っている。

今日でもそうですが、裁判にはお金が必要です。貧しい人は裁判を起こせません。また、法律は法律を作った強い人を守りますが、弱い人を守りません。制度とはすべて、その制度、法律を作った人々が有利になるように出来ている。

「そもそも、あなたがたの間に裁判ざたがあること自体、既にあなたがたの負けです。なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのですか。なぜ、むしろ奪われるままでいないのですか。」(7)と語ります。弱い人から不都合なことをされたり、貧しい人が生きるためにしているに不義をみとめても、なぜ、優しく見て、見ないふりが出来ないのですか。あなたのことを、主イエスは見て見ぬふりをして赦してくれているではありませんか、貧しい弱い人を正義の名によって裁判にかけることが、不義であり奪い取ることことにはなりませんか、とパウロは教えている。主イエスの十字架の贖いの愛が心のどこかに少しでもあれば、教会の弱い人、貧しい人をこの世の裁判に訴えたりしないでしょう。そんなことは出来ないでしょう、と言いたいのです。「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」(20)とパウロは教えている。赦されたように赦しなさい、とパウロは言いたいのです。

島之内に遣わされて、私が言い続けて来たことの1つは「平等は平等ではなく、不平等である」ことです。会堂の貸出しも、使用感謝献金は、平等に頂いていません。使う人の「常識」にお任せしています。人間的には平等にしたいと思う誘惑は強くあります。主イエスの教会は、頂く献金は不平等で良い、否、不平等でなければならないと確信しています。他方、教会が人様にすること、差し上げることは平等でなければならないと思っています。マタイ20章のぶどう園の例えのように、夜明けから働いた人、9時から働いた人、12時から働いた人、3時から働いた人、5時から1時間しか働かなかった人がいた。神様は1時間しか働かない人から順に、全員に1デナリオン支払った。働く時間は不平等、すなわち、人が働く時間はまちまち、しかし、教会が与えるものは同じ、これが教会の平等です。この一点を理解して下されば、人間の思いに支配された教会が、主イエスの教会へ変わり始めると確信しています。

大げさに言えば、人に平等を要求する生き方は、神様が不在で、人間の思いに支配された生き方です。その人間の常識に疑問を感じ、神様に喜ばれる生き方に変えられることが、神と共に生きる生き方です。

私たちには、水平に人と共に生きる時(クロノス)を選ぶのか、垂直に神様と共に生きる時(カイロス)を選ぶのか、常に決断が必要です。この世の御用を優先するのか、神様と共なる礼拝を選ぶのか。人間的な思いに流されている中で、ふと立ち止まって、神様を見上げ、この道は神様に祝福される道であろうか悩むことが信仰的に大切です。

パウロは、「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが益になるわけではない。「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、わたしは何事にも支配されはしない(12)。と教えています。

貧しい人が教会の中で、主イエスの祝福と恵みを安心して受け続けることができるために何が必要なのだろうか?平等主義だろうか。少しでも豊かな者が、献金出来ない人をカバーする、不平等と思える不義を甘んじて受け入れることです。主イエスの贖いの恵みに感謝して、あえて損を、奪われることを信仰の十字架として受け入れる信仰者が求められているのです。

主イエスが誰の欠点も裁かなかったように、教会は裁かず、責めず、見えないところでカバーする信仰が求められています。人に平等主義を押しつけたくなる時は、私が生きているのは、「代価を払って買い取られたのだ」と主イエスの贖いの喜びを想起することです。不義を、損することを、失うことを受け入れることです。代価を払って買い取られた幸いな者であることを想起し、主イエス、それも十字架に付けられた主イエスを見つめて歩みましょう。

このページのトップへ戻る