2012年5月13日の説教要旨

「弱い人のためにもキリストは死んだ」

コリントの信徒への手紙一 8章1〜13節

教会の内部の問題から、8章からは、教会の外部との関係の問題が語られます。宗教と宗教の問題であり、その中で、毎日の問題は食べ物の問題です。特に偶像に供えられた肉についてです。真面目な人は、偶像に捧げられた肉を食べることが、信仰的に許されるのかどうかを悩んでいたようです。

教会は基本的には、4節のように「世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています」と考えていました。偶像への供え物でも全く気にする必要はないと思って食べていたでしょう。また、食べるように勧めていたのでしょう。パウロは教会の考え、知識を正しいと肯定している。しかし、教会は正しいこと主張することが目的ではありません。異なった人々が共に、平和に過ごせる教会を、社会を形成することです。

いつも言いますように、教会で、善悪が問題になることは決して健全ではない。知識がどんなに正しくても、その知識によって傲慢になったり、人を見下したりすることは、善悪の問題よりも罪深いことであり、キリスト教的ではない。善や正義の主張は憎しみや罪を育てる最たるものです。パウロは、「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」(1)と教えている。主イエスの教会にとって、主イエスや聖書についての正しい知識を持つことは大切なことですが、それ以上に大切なことは、弱い人、貧しい人、正しくない人を包む優しさ、愛の大切さを教えているのです。

教会について、信仰について、聖書について、正義について、雄弁に語れる人も教会には大切です。また、正義や信仰を語り、弱い人を批判する人はどこにでもいる。教会では個人の間違いや批判を固有名詞をあげて語ることがあってはならない。だから、教会で問題を起こしている人の名前を知っていても、パウロは一般化して語っている。「自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです」(2)と教えます。気付いて欲しいとの祈りがこもっている。

言葉を換えれば、あなたの周りで、教会のこと、主イエスのこと、聖書のことについて、何でも知っているように話している人がいたら、その人は、まだ本当のことを何も知らない無知をさらけ出している人と思っていいのですよ、語り、また、教会の役員たちには向かっては、教会で人に命令したり、人を批判したり、怒ったりすることは、あなたの不信仰、無知をさらけ出していることに気づきなさい、と祈りを持って語っているのです。

クリスチャンは何でも、気にしないで何でも食べます。それは悪いことではありません。「わたしたちを神のもとに導くのは、食物ではありません。食べないからといって、何かを失うわけではなく、食べたからといって、何かを得るわけではありません」(8)。すなわち、神様は、私たちの食べる物を見ておられるのではありません。見ておられるのは、食べるあなたがたの「心」ですよ、と教えているのです。食べることに躊躇している弱い人へのあなたの「心」を見ておられますよ、とパウロは気づかせたいのです。

初代教会から今日の教会まで、食事の問題は小さいようで大きい。使徒言行録を見ると、6章に「ギリシャ語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである」とある。

家庭でも、同じように分けているのに、お兄ちゃんの方が多い、お姉ちゃんの方が大きい、と苦情と言うか、抗議というかが母親に来る。

自分の家族や親しい仲間に多く上げ、親しくない人には少なく上げることは、人間の自然の姿です。だからこそ、弱い人に公平であるかをいつも意識することが大切です。主イエスは「目を覚ましていなさい」とよく言われたことも同じです。

教会の食事でも、「神様に捧げられた大切な献金」で賄うのだから、残るほど作らないで、満腹にならなくても、みんなで分けて食べればよいと考える人もいる。また、「私たちの献金」だから、多い目に作る人もいる。どちらも許されているが、「キリストの僕」として、自分を喜ばせる道ではなく、神様に喜ばれる道を意識して選択することが大切です。

「あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい。」(9)どちらを選んでも良い自由の中で、私たちの態度が弱い人をつまずかせる罪となることもありますよと、と教えているのです。神様だけではなく、弱い人にも、あなたの心は見抜かれていますよとパウロは教えている。

主イエスはマタイ18:1〜5で「そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」と教えています。教会は常に、弱い者と共に生きる心を失ってはならないのです。もし、今まで弱い者であった人が強くなれば、また、新しい最も弱い者を見出す旅を始めるのです。

教会は正義以上に優先しなければならないのは、弱い人への愛です。ローマ14:15〜16 「あなたの食べ物について兄弟が心を痛めるならば、あなたはもはや愛に従って歩んでいません。食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません。キリストはその兄弟のために死んでくださったのです。ですから、あなたがたにとって善いことがそしりの種にならないようにしなさい。」を教えています。弱い人のためにもキリストは死んでくださった」この御言葉を握りしめて今週も歩みましょう。

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