2010年9月26日の説教要旨

「正しい者も正しくない者も」

使徒言行録 24章

マルコ福音書はヨハネの宣教から書き始めている。ヨハネについてマルコは「荒れ野に現われて、罪の赦しを得させるために悔い改めのバプテスマを宣ベ伝えた」と書かれている。また、ルカ福音書を見ますと、主イエスはヨハネについて、「言っておくが、およそ女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない。しかし、神の国で最も小さい者でも、彼より偉大である」(7:28)と教えている。この偉大なヨハネは主イエスについて、「わたしよりも優れた方が、後ろから来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない」(マルコ1:7〜8)と語っている。女性から生まれた者の中で最も偉大な人と言われたヨハネ自身は、主イエスの履物のひもを解く値打ちもない自分であることを認識していた。救い主イエス・キリストの前に、自分は無に等しいこと、自分を無条件に主イエスに聴従すること、主イエスに変えられることを受け入れる忠実な僕として生きることを告白している。

他方、主イエスを十字架にかけ、また、今、パウロを捕らえて、殺そうとしているユダヤ人たちは自分が正しく変わる必要がないと思い込んでいた。自分は変わる必要がないと思い込むことは自分を神様の座に置くことで大変危険である。

彼らはパウロを受け継いできた伝統、財産、既得権を脅かす存在と思い、赦せなかった。誰でもそうですが、自分の不利益をもたらす人を歓迎できません、敵のように思い込む危険性を持っている。

履物のひもを解く値打ちもない自分、無に等しい自分であることに気づくことは人間の大切な知恵である。パウロが教えるように、私たちは知らねばならないこともまだ知らない存在である(第1コリント8:2)。また、主イエスの教えのように、見えると言い張ることが罪である(ヨハネ9:41)。そして、「主なる神様、教えてください、導いて下さい」とひざまずき祈れる人になることが人間の知恵のゴールである。

信仰とは存在ではなく、働きである。存在するだけではその辺の石や木と変わらない。信仰とは働きである。たとえば、アルコール依存者が教会に来られた時、教会に相応しくない人として遠ざけるのか、主イエスを迎えるように、その人に近づき、側に座るか、その働きが信仰である。人間関係で大切なことは、人を変えることではなく、「私」が変わることである。親は教える者、子供は学ぶ者と固定的に考えることは、律法主義的である。そこでは、教える者が教えられるという逆のことが起こらない。この逆のことが起こる関係が本当の自由なかんけいである。神様の御言葉と聖霊によって造り変えられなければならない自分を知り、神様の憐れみを求めることが大切である。洗礼を受けた実体以上に大切なことは、御言葉に聴従して他者への働きかける信仰である。パウロが「正しい者にも正しくない者もやがて復活する希望」を語りました。これは偉い人々には赦せなかった。正しい者と正しくない者を一緒にして欲しくないのである。キリスト者は常に正しいところに留まる者ではない。狭間で苦悩する存在である。正しい者も正しくないにも祝福を与える神様の教えに従って、私が働くことが信仰である。神様は「正しい者も正しくない者にも恵みを与え、赦しを与え、祝福を与え、救いを与えて下さる」ことを心から喜べる者がキリスト者である。「正しい者も正しくない者にも」祝福を与えたもう神様の働きを受けた者として、私たちも他者に近づき、働きかけて、主イエスの僕に徹して歩みましょう。

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