2012年8月5日の説教要旨

「慰め主を見上げて生きる」

コリントの信徒への手紙二 1章1節〜24節

コリント教会もパウロが伝道した教会ですが、実は、パウロと信仰を同じくした人はごくごく少数で、多くの人はパウロに批判的でした。本当に対立したのは、パウロと数人の有力者であった。昔も今も、教会で生きるために、教会の弱者は強者や利益を与えてくれる強者に従い、神への信仰を心に秘める矛盾を抱えている。

主イエスがエルサレムに入場した時に、棕櫚の葉や上着を道に敷いて、ホサナ、ホサナと主イエスを歓迎した群衆は、一瞬にして、十字架に付けよと主イエスを呪います。この豹変が人間の現実である。

主イエスが十字架にかけられた時、ローマの総督はポンテオ・ピラトでした。ピラトが裁判の席に着いていた時に、「あの正しい人に関係しないでください」(マタイ27:19)と妻からの伝言を受け取ります。ピラトは妻の忠告よりも、大祭司や律法学者や長老や群衆に迎合し、利用され、彼らに喜ばれることを選択した。今でも、世界中のキリスト者から毎日曜日、使徒信条で主イエスを、「ポンテオ・ピラトのにもとに苦しめを受け、十字架に付けられ・・・」と語り続けられている。ピラトを利用した人々の名前は忘れられても、利用された人の名前はいつまでも忘れられない。

人の奴隷にならないように、いつも、主イエスならどのような選択をされるかと、主イエスと共に歩むことを忘れてはならない。「私」は、人の言葉に迎合しているのか、神様に聴従しているのか、いつも自問自答して歩むことが大切である。

パウロは一部の有力者たちとその人たちの奴隷のように盲従しているコリント教会に失望した。マタイ10:12以下の主イエスが弟子を派遣する時の御言葉のように、足の裏の塵を払ってコリントを去った。それでも、コリント教会を見捨てることができなかった。パウロの手紙は常に、パウロに反対する教会の多数派を褒め励ましながら、多数派が教会内の少数派の信仰を壊さないように、追放しないように、信仰者らしく愛を持って接してくれること願い、祈って書いている。

神様の愛で支配されるべき世界が人間の罪に支配されている矛盾の苦悩の中で、パウロがたどり着いた結論は、「神様からの慰め」であった。人を見れば失望しかなく、人に期待しては裏切られる中で、神様を見上げ、十字架の主イエスを見つめて、御言葉から、主イエスから希望と慰めを得ることが出来る。「わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神様を頼りにするようになりました」(9)と教えている。私たちも聖書を開き、目を天に向け、神様からの慰めのみを求めて歩みましょう。

神様を見上げることを忘れて、人を見ますと、私たちの言動は他者への批判に変わる。悪いのは信仰の無い彼らだ、悪いのは外国人だ、悪いのはキリスト者ではなく他宗教の人だと決めつける傾向がある。本当に戦わなければならないのは、自分が正しく、人が悪いと決めつける高慢さであり、それが偶像崇拝であることを忘れてはならない。「反逆は占いの罪に、高慢は偶像崇拝に等しい」(サムエル記上15:23)とサムエルはサウル王を批判している。また、十字架と復活の主イエスから目をそらしますと、教会は、「主イエスの教会」から「人間の仲間の集まり」に気付かないうちに変質してしまう。昔も今も、主イエスが私たちの心を支配することを嫌い、憎み、十字架にかけてこの世から追放した。

神様は人間に一つの禁止を命じた。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」(創世記2:16)。それを守ることは、人間が人間であるために不可欠である。私たちの信仰は神様に条件を付けている。私たちの信仰は、「私は、主イエスを救い主(キリスト)と認めるが、決して私の心の中に入って来て、私の今の生活を変えないで欲しい」と。信仰とは、神様を心に迎え入れることである。聖書の御言葉で、「私」が造り変えられることである。それを嫌ったこの世は主イエスを十字架につけて、自分の心から、この世から追放してしまった。

パウロは、「わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように。神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。」(3〜4)と感謝の言葉を語っている。

また、パウロは「慰め」という言葉を何度も使っている。パウロが慰めを得たのは、人に頼る道が閉ざされて、神様を見上げる生活にたどり着いたからである。もう一つの慰めは、パウロと信仰を同じくしたコリント教会の少数の仲間が信仰を失うことなく、信仰を持って生きていることを知らされたことも大きな慰めであった。また、そのことを許して下さっている神様に感謝できることがパウロの慰めであった。

教会の中で、見下され、差別を受け、無視され、批判されている、小数派の仲間に、「キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。わたしたちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの慰めと救いになります。また、わたしたちが慰められるとき、それはあなたがたの慰めになり、あなたがたがわたしたちの苦しみと同じ苦しみに耐えることができるのです。あなたがたについてわたしたちが抱いている希望は揺るぎません。なぜなら、あなたがたが苦しみを共にしてくれているように、慰めをも共にしていると、わたしたちは知っているからです」(5〜7)とパウロは励ましている。

パウロは自分の伝道が敗北のように思えるが、このような中で、神様を見上げ、十字架の主イエスを見つめて、苦難に耐えて生きていたのです。私たちも、聖書を開き、目を天に向け、神様からの慰めを求めて歩みましょう。

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