2010年10月17日の説教要旨

「救いは全ての人と共に」

使徒言行録 27章

ひたすら神様に仕えてきたパウロは同胞ユダヤ人の策略で囚人の一人として、ローマへ護送された。それは主イエスの場合と同じである。私たちも、生活の中でさまざまな不当な扱いを受けます。不当な扱いと思っても、余り心を騒がせてはいけません。不当な扱いをする人が私たちの人生の最後の審判者ではない。一切は神様の前で判断される。心を騒がせ、感情的になるとき、それは自分の信仰、価値観が問われていると言える。矛盾を感じる時、主イエスの十字架を見上げ、想起して、全ての思い煩いを神様にお委ねできるようにしたい。

パウロを絶対に許さない人もいましたが、同時に、3節に書かれていますように、皇帝直属部隊の百人隊長ユリウスはパウロを親切に扱いました。無理難題を浴びせかける人もおれば、背後で支えてくれる人もいる。神様は思いがけないところで、思いがけない方法で、良き理解者を置いていてくださる。不当な扱いをされても、それが最後ではない。孤独な時、不安な時、寂しい時、年間聖句を思い起こしましょう。「私の霊はお前たちの中に留まっている。恐れてはならない」(ハガイ2:5)。人に捨てられても、神様の霊が私たちの中に留まって、護ってくださる。独り子主イエス・キリストの命を投げ出してまでも私たちを愛していてくださる神様は全てをご存知であり、私たちを祝福し、救い、いつも希望を与えてくださる。神様はパウロに良き理解者、百人隊長ユリウスをそばに置いて、護られた。同じように、弱い私たちにも良き理解者、助け手を備えていてくださる。

生きるか死ぬかの暴風の中で、パウロは何をしていたのでしょうか。パウロは祈っていた。家庭でも、教会でも、祈りに徹する人が一人おれば、救われる。パウロが示されたことは、「今、あなたがたに勧めます。元気を出しなさい。船は失うが、皆さんのうちだれ一人として命を失う者はないのです」(22)であった。

パウロがローマへ行くことは誰の計画であったのでしょうか。パウロ自身でもありません。祭司長や律法学者でもありません。総督やユダヤの王でもありません。パウロを握り、支配し、持ち運んでいたのは、主イエス・キリストを死から復活された我らの創造者なる神様である。

船員が逃げようとした時、百人隊長に「あの人たちが船に留まっていなければ、あなたたちは助からない」(31)と忠告した。兵士は囚人たちを殺そうとした時も百人隊長はパウロを助けたいと思って、殺す計画を思い留まらせた。そして、全員が無事に上陸した。ユダヤ教は正しい者と正しくない者を峻別した。主イエスは善人も罪人も例外なく全ての人を共に救いに招かれた。ここに私たちが留まるべき信仰の原点がある。

私たちの現実の生活では、いろいろな恐れ、不安、いらだちを覚える。しかし、それらが私たちの支配者ではない。私たちの支配者は主イエス・キリストの父なる神様である。イザヤ46:4「わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す」と約束していてくださる神様が私たちの人生を握っていて下さる。感謝。

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