2010年5月30日の説教要旨

「聖霊の働き−伝道−」

使徒言行録 8章

8章は主イエスの教えがエルサレムからユダヤとサマリヤの町々へ広がって行く過程である。良いことは、必ずしも、私たちが考える良い時に起こったり、可能になるとは限らない。教会の伝道も、決して教会の都合の良い時に進んだのではない。初代教会も、ステファノの殉教、エルサレム教会への大迫害が起こり、多くのキリスト者は迫害をのがれて、逃げるようにエルサレムを離れた。逃げるのに忙しくて、とても伝道などしていられない状態でした。しかし、不思議に、そんな中で伝道が進んでいった。

迫害が迫り、逃げなければならないのに、「信仰深い人々がステファノを葬り、彼のことを思って大変悲しんだ」(2)人がいた。逃げるよりも、殺されることよりも、信仰を守ることの大切さを知っていた人々がいた。彼らは、「福音を告げ知らせながら巡り歩いた」(4)。教会が主イエスの教会であり続ける為に必要なことは、主イエスへの信仰を第一とする人が一人いることである。

また、大迫害も、全てのキリスト者に向けられたものではなかった。迫害を受けたキリスト者と迫害を受けないキリスト者がいた。実は使徒たちはエルサレムに残っていた。それは迫害する側の選びでありますが、同時に、教会の中に、そのように選ばせる問題もあったのでしょう。教会の大きな岐路となった。

初代教会の中心は、キリスト者の迫害を他人事のように見ていたエルサレム教会から、迫害を受けた人々が中心のアンティオキアの教会に移った。なお、エルサレム教会は中心ですが、主なる神様はエルサレム教会を離れられた。イスラエルの初代王サウルは神様から見捨てられ、ダビデが新しい王に任命されますが、依然としてサウルが王として君臨していたのと同じである。

どの時代でも、主イエスを信じ、与えられる十字架を背負っている人は、草花の命を育んでいる根のように見えません。神様の救いの歴史は、主イエスの十字架を負って、批判や迫害を受けた人々によって静かに進められてきた。

信仰に生きる者は、考える前に、決断する前に、先週も引用しましたように、「アッパ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行なわれますように」(マルコ福音書14:36)のとの祈りへ導かれることが信仰者の生き方である。

26節以下で、主の天使がフィリポに、「ここをたって南に向かい、エルサレムからガザへ下る道に行け」と命じられた。そこは寂しい道である、とも書かれている。誰もが好んで行きたいと思わない道であった。ところが、「フィリポはすぐ出かけて行った」と書かれている。フィリポが祈り求めていたから、すぐに従って出かけていけた。聴き従って、神様に示された道を進むと、エチオピアの宦官に出会い、主イエスの福音を宣べ伝える機会を与えられた。祈り求めた道が、どんなに荒れ地や行きたくない道であっても、自分の判断を加えず、従うことが信仰であり、伝道の機会となる。寂しい道が主に祝福されるのではない。「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行なわれますように。」と主に祝される道を求めて祈る生活が求められている。嫌いなこと、苦手なこと、気の進まないことを避けてはならない。エレミヤは神様の恵み、祝福はどこでいただけるのかをはっきりと教えている。「荒れ野で恵みを受ける」エレミヤ31:2)。神様の御心を祈り求めることが、伝道である。

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