2012年6月17日の説教要旨

「十字架の主を見つめて集う」

コリントの信徒への手紙一 11章17節〜34節

人間の家族の自覚は、生活を共にすることであり、食事を共にすることが基本です。現代人の生活は、お正月でさえ家族が共に集まらなくなり、核家族さえも消えかけています。個人個人の生活はあっても、日本人が築き上げてきた家族制度は崩壊したに等しい。そこでは、何世代もかけて積み上げて来た文化、知恵の継承が難しくなっている。コンクリートの高い建物は増え続けているが、何十年、何百年と積み上げられてきたさまざまな家庭やその営みの伝統によって大きく育てられた人間の知恵の大木は倒され、小さな一年草の草花のようになっている。特に人間の生活の営みの経験と言う「知恵」を貯えている母や祖母がその知恵を発揮する機会が無くなった。それは大きな損失である。

信仰の家族も人間の家族と同じで、生活を共にし、食卓を囲まなければ、信仰の家族とはなれない。朝食、昼食、夕食を共にする家族的な教会は失われ、今日の教会は、10時と3時のテイータイム的なサロンになってしまった。

家族にとって大切なことは、食事を作る過程の共有であって、満腹になることではない。過程より結果を重視するから、家で食べるよりもレストラン等で美味しいものを食べることに価値を求めている。自分で作る過程を省略すると、作ることが出来ないが、評論だけは出来る口うるさい評論家であふれてしまう。経験しないのだから、流行を追い、人の意見に左右されてしまう。

自分で作ると、みんなに食べてほしいと思うが、自分が作っていないから、信仰の家族みんなに少しづつ分けてあげよう、残しておいてあげようとの優しい心が育たない。だから、「勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいると言う始末になる」(21)。教会の中でさえ、気の合った者だけへの配慮となり、その他の人への優しい配慮が無くなり、教会は分裂的になっていく。分裂的になると常に弱い者が傷を負ってしまう。

ある時期、牧師として、説教することの空しさを痛感し、悩み抜いていた。牧師や教会の使命は正しいことを語ること以上に大切なことは、その人自身が信仰的な生き方に気付いてもらうことである。今までの自分中心の生き方をストップして、神様中心の生活にチェンジして、信仰的に成長してもらうことである。人間が間違いを指摘されて、「はい、分かりました」とはならない。人間がそんなに素直であれば、主イエスを十字架にかけるまで憎まなかったでしょう。

牧師としての苦悩の闇のような中で、示された言葉が、「教会は乗り合いバス」であった。気の合う者がマイカーでドライブするようなのが教会ではない。様々な人が乗り込んでくる乗り合いバスが教会である。気の合わない人も乗って来る。好きになれない人も乗って来るかも知れない。しかし、彼らは、例外なく、みんなが乗り合いバスの運転手である主イエスに招かれて乗っている一人一人であり、例外なく、神様の祝福の駅に導かれている一人一人であると、自分に言い聞かせていた。

主イエス・キリストの誕生は、「すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました」(テトス2:11)との教えをクリスマスだけではなく、いつも想起し、教会で人様の善悪を問題にしてはならない。善悪が大きな話題になることは主イエスの教会の堕落の証拠です。問題は、自分自身の言行が「神の栄光を現すためにしているか」と毎日、何度も何度も問い直すことです。人様のことではなく自分の信仰生活を十字架の主イエスを想起しつつ、問い直すことが信仰です。

パウロは聖餐のことから、再度語ります。教会が最後まで守りぬかなければならない「聖餐」は今日の聖餐と違います。.23~25にパン裂き、食事、ブドウ酒と書かれています。聖餐式のパンとブドウ酒の間に食事がはさまれていたのです。だとすると、教会での愛餐会の食事のことを厳粛に考えなければならない。コリントの教会の聖餐は主イエスの祝福の食事としての聖なる交わりになっていなかった。好きな者と好きな者との食事であり、単なる飲食の楽しみであった。主イエスに仕えるように、貧しい者への奉仕、献身の心が失われていた。

キリスト教信仰にとって、何よりも大切な「聖餐」を守っていても、信仰が励まされず、喜びが与えられないこともあるのです。それは、双眼鏡で、善悪を問題にして人様の小さな問題を拡大して見ながら、自分の内にある大きな問題には双眼鏡を反対にして、小さく見えないようにしているのです。人のことが気になる信仰は、主イエスの心を忘れている信仰です。主の十字架を見失っている信仰です。一人の密室での礼拝をさぼっている信仰です。無くてならないことは一つです。十字架の主を見上げて生きることです。それが信仰です。

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