2012年8月19日の説教要旨

「キリストに向き直る」

コリントの信徒への手紙二 3章1節〜18節

当時は、エルサレム教会からの推薦状が最も権威があり、信用された。また、有力な教会から推薦状をもって訪問することで信用された。しかし、パウロは人間的な慣例にとらわれなかった。パウロの手紙の書き出しは、「神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロと、・・・」(第二コリント1:1)と語り、ガラテヤ書でも「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス。キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神によって使徒とされたパウロ、・・・」(ガラテヤ1:1)と手紙を書き始めている。

現在の私たちはパウロと利害関係がないので、パウロの言葉に感心して聴くことができる。しかし、神様から直接召されたとの表現は、利害がからんでいる当時の人々から見れば、またも、パウロは自分を推薦している傲慢な人間と映ったのでしょう。第三者にとって、素晴らしい信仰の告白であっても、当事者にとって苦々しいと映ることもある。

人間的な推薦状をもらって、伝道しているのではない。人の推薦状などは要らない。推薦状が必要であれば、コリント教会の皆さんです。それも、心に書かれたており、すべての人々から知られ、読まれている推薦状であるとパウロは断言している。また、キリストが墨ではなく、神の霊によって、人の心に書きつけられた手紙ですと語っている。いずれ、破れ、虫に食われ、消え去る紙ではなく、また、石の板ではなく、心に聖霊によって書かれた手紙であって欲しいのがパウロの願いであった。人々をキリストに導くのも、人々をキリストから遠ざけるのも、キリストの手紙であるあなたがたの言動によるのですと教えている。私たちは人生の岐路に立つ道標である。人々が、分かれ道に来て、キリス者の「あなた」を信じて、キリストに通じる道に導かれるか、信じることが出来なくて、滅びの道へ導かれるかの重大な岐路に私たちは立っている。

よく話しますように、牧師は移動伝道師で、信徒は定着伝道師である。町の人々にとって左右されるのは定着伝道師の言動である。戦後、国際キリスト教大学で教えた世界的な神学者エミール・ブルンナーは日本を去る時、「日本の教会は、羊飼いだけが羊を産もうと努力しているが、羊を産むのは羊飼いではなく、羊である」と日本の教会の問題点を語られたそうです。

パウロがコリント教会の人々に、「私の推薦状」「キリストの手紙」であって欲しいと願っていたが、現実はパウロの祈りに沿うことは出来なかった。家族や隣人・知人が、キリスト者であるあなたがたと接する時、キリストの手紙にふさわしくあって欲しい。神の霊に導かれた人らしくあって欲しいとパウロは祈っている。人々に失望ではなく、希望を与える手紙であって欲しいとの願いである。現実のコリント教会は、人をつまずかせる傲慢さを持っていた。現在の教会の反省点でもある。

7節以下で、モーセの十戒に触れている。主イエスの御降誕以前は、律法を守ること、守らせることが最重要でした。それは人を罪に定める使命でした。しかし、主イエスの誕生によって与えられた福音は裁きではなく、赦しである。それも信仰の兄弟姉妹としての赦しと祝福である。禁止事項の多い掟は家族や家庭では殆んど無いでしょう。他人には「借用証書」を要求しても、家族や兄弟には、信頼して「借用証書」を求めないでしょう。規則が多いことは、人を身内と見ないで、信用できない人と見ているのです。だから、自分と同じ負担を要求し、自分と同じ義務を課すことになる。

12節以下で、モーセの顔の覆い、古い契約が読まれる際の覆いについて書かれている。判らないこと、見てはいけないことがあった。しかし、主イエス・キリストによって覆いは取り除けられた。誰が救われ誰が救われないのか、誰が祝福され誰が祝福されないのか。誰が永遠の命に迎え入れられるのか迎えられないのか。人々は不安であった。しかし、主イエスの方に向き直れば、覆いが取り去られた。神様の霊を迎え入れる者には、栄光から栄光へと、主イエスと似た者に変えられる。これこそ、主イエスをキリスト(救い主)と信じる者に与えられる、最大の賜物である。

人と向き合っておれば、人への愚痴、不満、不信が泉のように溢れ出てくる。人と自分を比較するからである。じつに惨めな姿である。しかし、主イエスの方に向き直れば、こんな私が愛されている、赦されている、主イエスが受けた祝福と永遠の命が約束されていることに気付かされる。

創世記16章にアブラハムの妻サライの女奴隷ハガルの記事があります。ハガルが主人からも神様からも見捨てられたと思い、死を覚悟して荒れ野へ逃げました。そこで、気付かされたことは、神様とは「エル・ロイ」(わたしを顧みられる神)であるとの信仰であった。希望を失い、絶望や闇を感じても、それが終りではない。エル・ロイなる神様が私たちを見守っていてくださる。2012年度の年間聖句のように、「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じた」。私たちも、人を見ないで、エル・ロイなる神様を、死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神様に向き直って、聖霊の導き、養いを受けましょう。

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