2010年6月13日の説教要旨

「神さまの御心を知る−出会い」

使徒言行録 10章

パウロがダマスコ途上で神様に召され、アナニアの執り成しの祈りによってキリスト者、伝道者となった。10章〜11章は、カイサリアにおける異邦人への聖霊降臨、神様の霊の働きと、その結果について書かれている。 ペトロも神様の奥義、神様の御心を本当に知ったのは百人隊長コルネリウスとの出会いでした。

人間の歴史では、どの時代でも、清いものと清くないものに区別されてきた。正しいものと正しくないものに、価値あるものと価値の無いものに分けられてきた。また、そのように教えられてきた。聖書の世界では、誰が正しいか正しくないかは問題ではない。大切なことは、「神様に清められる」(15以下)ことである。信仰に生きることは、私が立派であることを意味しません。信仰に生きるとは、「私は清められる必要がある」ことに気づき、自覚して生きることである。

ペトロはコルネリウスとの出会いによって大きく変えられた。「神はわたしに、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないと、お示しになりました」(28) また、「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行なう人は、神に受け入れられるのです」(34)と告白している。

机に向かって、聖書を読み、研究しても出会いは起こらない。生きている人間との出会いが必要である。ペトロは外国人コルネリウスと出会って、全く新しい人に変えられた。神様の御心、奥義を知るために彼らは何をしたのでしょう。彼らのしたことは一つ、祈りです。コルネリウスは「信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず祈っていた」(2)。他方、ペトロも「ペトロは祈るために屋上に上りました。昼の12時ごろであった」(9)。神様の御心を知りたいと願う者に必要なことは祈りの生活である。御言葉に聴き、祈ることである。神様は祈りの中で、ペトロにコルネリウスとの出会いを与えられた。御言葉と祈り、そして異質な人々との出会いによって、神様の御心が明らかにされる。人は具体的な一人の人との出会いで変えられる。

私たちには、喜べない出会い、歓迎できない出会いもある。パウロとアナニアとの出会いも、ペトロとコルネリウスの出会いも喜べない出会いであった。それでも、祈りのある生活をなし、受け入れられない出会いを、「御言葉ですから」と自分を捨てて、受け入れる時、神様の御心に相応しい出会いとなる。人との出会いによって神様の御心をより深く、より正しく知る者へと変えられる。

気の合った人や、特定の人とのみ付き合ったり、友や仲間を限定することは、人間として貧しくなるだけではなく、神様の恵みや祝福を受けとめられなくなり、真理から離れていく。

孤児の父と言われた、石井十次先生は医者になろうとしていた。医学校の卒業試験の前に病気になり、卒業試験は不合格となります。校長が医学の実習のために、小さな診療所へつかわした。それが1887年(明治20年)であり、8歳の前原定一さんとの出会いである。石井十次先生の人生を決定する出会いとなる。その出会いを偶然と取るか、神様の導きと取るかで人生が変わる。石井先生は、自分の夢を捨てて、一人の子供のために人生をささげられ決心をされた。この決断が神様の祝福を祈り求める生活である。

一つの出会いを、神様の御心と受け取る時、神様と共なる道を歩むことが出来る。しかし、偶然だ、迷惑だと受け取っていると神様と共なる道を歩むことが出来ない。私たちの信仰は、また、教会の信仰は、出会いによって正される。

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