2010年12月24日 クリスマス讃美礼拝

「ただ一つの栄光」

ヨハネによる福音書 1章1節〜14節

12月になると繁華街も商店街もまた、各家庭でもクリスマスのさまざまなイルニネ−ションで美しく飾られ、光を放っている。光は私たちを正しく導きとは限らない。光にも、私たちを滅びへと導く光もあれば、幸福に導く光もある。何事にも表と裏がありますように、光にも「まことの光」と「偽りの光」がある。それを見分ける知恵も必要である。

聖書は、主イエス・キリストについて、「まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」と教えている。神様は例外なく全ての人を照らしたい、すべての人を救いたい、すべての人を祝福したいと思っておられることを証ししている。だから、教会の外でも、キリスト教以外でも、クリスマス会や、祝会をしても不思議ではないし、批判することではない。

全ての人を照らす光こそ、聖書が教える「まことの光」である。それに対して、ある人々だけを限定して、照らす光は、実は「偽りの光」である。私とあなただけとか、私と仲間だけに照らす光は神様からのまことの光ではない。日本人だけに当てられる光もまことの光ではない。神様に祝福される光は、国を越え、民族を越え、宗教を越えで、すべての人々を照らす光である。なぜなら、神様から見れば、全ての人が、愛する子どもなのである。

しかし、人間の歴史には、常に光の当たる人と光の当たらない人がいる。神様にすれば、皆が自分の愛する子どもたちである。だから、飢え渇いている子どもがること、孤独な人がいること、一人で苦悩している人がいることは神様にとって悲しみであり、痛みである。神様は預言者を用いて、光の届かない所にいる人々に光をとどかせよと命じ続けておられる。しかし、我々は光を仲間以外の人々と分かち合うことを喜ばなかったし、今も喜ばない。

預言者の言葉に耳を貸さない私たちに、神様は独り子主イエスを貧しさのシンボルである馬小屋で誕生させ、光の届かないところにいる人々にも「光」をと語りかけておられる。それがクリスマスである。

主イエスの生き方は、神様の御心を実現するために来られました。それは光の当たらない所に置かれていた人々に光を与えることでした。罪人と決めつけられていた、徴税人、遊女、異邦人、病める人に近づいて、神様の愛を伝えられました。しかし、この世の光に照らされて生きていた地位や富のある祭司や律法学者、ファリサイ派の人々は、主イエスの生き方を認めず、許さなかった。十字架につけて殺し、この世から追放してしまいました。

すべての人を照らすまことの光なる主イエスに対して、私たちは心を開くこともできますし、閉ざすことも出来る。主イエスに従うことも出来ますし、背を向けることも出来る。

主イエスはタイ福音書25章で、「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と教えている。主イエスのまことの光を見つめ、照らされて歩むことは、弱い人、貧しい人、困っている人、疎外されている人の側に立つことである。その道はこの世が嫌う十字架への道である。しかし、その道が、主イエスとインマヌエルなる人生である。

私たちの将来は決して明るいものではない。むしろ、考えれば考える程、不安と恐れが一杯になる。だからこそ、考えるのではなく、神様の言葉の耳を傾けて聴きましょう。ヨハネ黙示録22:13「わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである」と教えている。私たちの人生の最初も途上も最後も握っておられるのは神様である。

聖書は、「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」(マルコ福音書13:31)。また、「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ福音書10:11)と教えている。

まことの光に照らされて生きようとすれば、預言者を殺し、主イエスを殺したように、この世の偽りの光が怒りだす。だから、私たちは恐ろしくなり、沈黙し、偽りの光に対して心では反発を覚えながらも、生きるために沈黙し従ってしまう。

クリスマスの出来事、すなわち、救い主イエス・キリストの御降誕は、あなたの全ての友があなたを捨て去っても、神様は絶対にあなたを見捨てない、最後まで共にいるよ、との約束の「しるし」である。全ての希望が消えても、キリストは最後まで私たちから離れないでインマヌエル、共にいてくださいます。闇を照らす光こそが主の栄光を現す唯一の光である。

私たちの人生の最後を握っておられる方、最後の審判者は人ではない。キリストです。その方がすべての人々に救いをもたらすもことの光として、神の子救い主イエス・キリストが御降誕された。光の届かないところへ光を、愛の届かないところに愛を、優しさの届かないところに優しさを、渇きを覚える人には一滴の水を持ち運ぶ生き方を求められている。それが父であり母である神様の子どもである私たちへのクリスマスプレゼントである。

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