2010年8月1日の説教要旨

「知られざる神様」

使徒言行録 17章

今朝の使徒言行録17章に出て来ますアテネには、3000を超える神様が祭られていた。人間が想像できるあらゆる神様の像を作り祭ったのでしょう。それでも、自分たちが気づいていない神様がおられるかもしれないと不安に思って「知られざる神に」(23)と刻んだ祭壇を造ったのでしょう。アテネの人々の宗教心が篤いと言うよりも、実は、人間の心の不安の表れでしょう。また、この「知られざる神」を創り出したということは、人間の力、経験では神様を知りえないことの告白である。日本人もそうですが、多神教の中で生きることは信仰の立派さ、深さを意味しません。自分に仕えてくれる神を求めているのであって、自分が神に仕える信仰ではない。子供が、次から次に新しいおもちゃを求めるように、アテネの人々は自分たちの宗教心や願いをかなえてくれる神様を次から次へと造り出した。

日常生活で失敗や反省ばかり繰り返している私たちが神様を正しく知れるはずはありません。私たちが神様を造ったのではなく、私たちが神様によって造られた。「世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです」(24〜25)とパウロは教えている。

私たちが神様を創造したのではなく、神様が私たちを創造された。教会の創造者も私達ではなく、神様である。私たちが神様を知ったり、発見できるのではない。主イエス・キリストを通して、私たちは神様を知ることが出来るだけである。私たちは自分の生活に常に不満と欠けを覚えている。私たちの側から見れば足りないものだらけである。しかし、神様の側から見れば、私たちに必要は満たされている。私たちの願いの実現が、神様の恵みの時ではない。豊かな時も貧しい時も、喜びの時も悲しい時も、自信のある時も無い時も、笑える時も涙の時も、その時その時が、「我らは神の中に生き、動き、存在する」(28)。だから、キリスト者にとって、いつも、「今あるは神様の恵み」である。キリスト者の祈りは、「あれも足りません、これも足りません、補ってください。」とではない。キリスト者の祈りは、今あるは神様の恵みと理解して、「神様、足りないことも感謝します。」でなければならない。キリスト者の祈りは、「感謝で始まり、感謝で終わる。」私たちの人生の途上で、何があっても、私たちは、感謝である。

なぜなら、私たちの人生はイザヤ43:4の「わたしはあなたたちを造った。わたしは担い、背負い、救い出す」との創造者なる神様の約束の中にある。私たちの人生の全ては神様の約束の中で起こっている。それを信じることが信仰である。

聖書の御言葉を通して、神様は裁き主ではなく、救い主であり、愛に満ちた方であることを私たちは知った。独り子、主イエス・キリストを私たちの罪のために十字架に掛けるほど、私たちのために必死になり、愛し、赦し、救い、祝福して下さることを知った。そのことをいつも想起して、見つめて、感謝しつつ歩みましょう。 私たちは神様に造られ、知られ、愛され、赦され、祝福されていることを感謝し、喜び生活をして、自分自身の心の平和、教会の平和、民族と民族の平和、国と国の平和に向かって歩みましょう。

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