2012年3月18日の説教要旨

「成長させて下さる神様」

コリントの信徒への手紙一 3章1節〜23節

島之内教会と関わりのある皆様と記念すべき教会創立130年の記念礼拝を共に守れる恵みを心から感謝します。教会的な習慣からすれば、午前は感謝の記念礼拝を守り、午後には大阪教区の諸教会の方々や関係者を多くお招きして、記念式典の祝宴を設けるべきでありかもしれません。あえて、それを避けました。130周年記念のこの日を境に、一人一人が、相当な危機感と覚悟を持って、次の山、150周年を登り切ろうとしているからです。

現在の島之内教会の力では、これだけの会堂を維持するだけでも大変です。考えれば考えるほど、不安になり、心配になります。しかし、教会は人間の力で興し、維持し、発展させるものではありません。教会を興し、維持し、発展させていて下さるのは主なる神様ご自身です。

2012年の年間聖句として与えられた御言葉は、ローマ4:17「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神をアブラハムは信じた。」です。教会の現実は、もう、高齢だから、年金生活だから、若者がいないから、無理、困難、不可能、絶望と言う言葉が自然と出てきます。しかし、聖書は私たちの心に神様のお言葉を「刺青」のように書き込みます。あなたがたの神は、「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる方である」と語ります。仕事のこと、家族のこと、将来のこと不安でいっぱいです。特に、昨年の3・11の東日本大震災、原発事故に後は深刻です。

それは私たちの現実、事実です。しかし、それは、神様不在の私たちの知恵と経験で考えた結論です。私たちは、心を静め、アブラハムと同じように、「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神」を信じて、周りを見直してみましょう。真っ暗な心の中に、「存在していないものを呼び出して存在させる神様のインマヌエルなる小さな希望の光を「今」見ているのです。感じているのです。

今、島之内教会では「コリント人への手紙」から学んでいます。今朝、与えられています御言葉に目を向けましょう。私たちが、誰かから「あなたは、霊の人ではなく、肉の人だ、赤ちゃんのような人だと言われたら、どうでしょうか。「私は、礼拝も守っているし、お祈りもしているし、肉の人とは失礼な・・」と怒るかもしれません。怒る人は、実は霊的な人ではないのです。霊の人とは円熟した人を意味します。いろいろな経験を積み重ねてきた人です。幼稚な人は、「この人は良い人」「あの人は悪い人」と決めてかかります。それに対して、霊の人、円熟した人は、人を善人か悪人かに分類するのではなく、「あの人の内に、良い所もあり、悪い所もある」と理解が出来る人のことです。「私は良い人で、あの人は悪い人」という幼稚な考えではなく、「私の中に良い人の時もあれば、悪い人と時もある」一人の内に「善と悪が混在している」と、認めることが出来る力が円熟した大人の考えです。

あなたは、「肉の人、赤ちゃん」と言われても、怒る必要はない。人間は肉の人としてしか生きることは出来ないのです。(1)パウロは「肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々」と語っています。肉の人であっても霊の人であっても、大切なことは、「主イエスとの関係」です。主イエスと結ばれているか、主イエスが歩かれた足跡を踏み従っているか、心と体の両方が主イエスを見つめ、主イエスと向き合っているか、主イエスと共に歩いているか、主イエスを第一としているかです。現実のコリント教会の人は、自分たちは信仰的に生きていると思っていました。しかし、パウロから見れば、主イエス不在の教会と映っていたのです。

私たち人間がどんなに立派な衣服で着飾っても、美辞麗句を語っても、その人の本質、本音は、神様に見抜かれていることは当然ですが、どこかで、誰かにも見られているものです。マタイ10:26「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。」と教えています。見えない私たちの信仰も実は見えている。文章を書くことで見えることがあります。親しい友を見れば、その人がどんな人か見えることもあります。その人の持ち物で見えることもあります。また、子供の中にその人の本質が見えることもあります。

商業で栄えた町、コリントの教会は組織としても、その礼拝や集会でも、又、地域の福祉活動でも、熱心で、立派に見えていたコリント教会ですが、パウロにはコリントの教会の信仰の本質が見えていた。神様が不在であった。主イエスに従わないで、好き勝手なことをしていた集団であった。「わたしはパウロを支持する」「わたしはアポロを支持すると、お互いの間にねたみや争いが絶えない教会であった。主イエスを中心とした教会ではなく、ただの人間的なクラブハウス、地域の婦人会的であった。

「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」などとの議論しています。それが正しい議論と思っていたのでしょうか。パウロは、(6)「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。大切なのは、植える者でも水を注ぐものでもなく、成長させてくださる神です。」と見事にコリントの教会の問題点を指摘されています。それを2000年昔の、コリント教会とパウロの関係では理解出来ても、今の私の信仰、教会の問題であることに私たちはなかなか気づきません。

説教で、同じ聖句を何度も引用すると、「先生、この前も、引用されましたよ、」と勉強していないかのように指摘される。牧師が何度も引用することは、「今の教会の問題ですよ、私たちの問題でしょう、一緒に考えましょう」との思いで引用しても、2000年昔のこととしては理解できても、今の問題として理解することは難しい。

パウロのために、アポロのために働くことが信仰だと思い込んでいたのでしょう。それが教会の私物化であることに気づかなかった。

パウロはアポロもケファもパウロも取るに足りない、教会になくてならないのは、成長させてくださる神のみであると強調されます。「私たちは神のために力を合わせて働く者である」(9)と当たり前のことを語っているが、コリントの教会も私たちもそのことを理解しているようで、正しく理解できない。また、パウロは、「あなたがたは神の畑、神の建物」(9)と語り、16節以下でも「あなたがたは神の神殿」と教えています。パウロを支持する人々は教会をパウロの畑、パウロの建物、パウロの神殿のように思って、パウロのために頑張っていたのでしょう。私たちも油断すると「主イエスの教会」を「わたしの教会、私たちの教会」と語ってしまうことが多々あります。これは、小さな間違いのようですが、実は大きな間違いなのです。パウロはコリントの教会の間違いを指摘しています。あなたがたは、私パウロの畑、神殿ではありませんよ、あなたがたは神様の畑、神様の神殿なのですよ、と教えています。

最後にパウロは「パウロもアポロもケファも、世界も生も死も、今起こっていることも将来起こることも。一切はあなたがたのもの」(22)と語ります。すべてのものが、あなたを助け、あなたの益になるように神様があなたがたのものとして与えていてくださいます。ただし、パウロは私たちに忘れてはならないこと、譲れないこと、無視してはならない「キリスト者の唯一の掟」を語ります。あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです」(23)。与えられているすべてのものはあなたがたのものであるが、あなた自身はキリストのものであり、キリストの栄光のために、そのすべての賜物を用いることを勧めているのです。

わたしたちを、島之内教会を成長させてくださる神の力を信じて、私はキリストのものであることをいつも想起して、キリストの栄光のために、祈りましょう。島之内教会の150周年は、私たちの多くはいないかもしれません。しかし、復活の主は、島に内教会と、150周年も200年周年も教会と共にいて働いておられることでしょう。教会の130周年を感謝しつつ、教会の150周年に向って、一日一日を祈りつつ、委ねつつ、成熟して、前進しましょう。

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