2010年5月16日の説教要旨

「恵みと力に満ちて」

使徒言行録 6章

キリスト者でない人々に、この人は牧師ですと紹介されますと、子供のころに日曜学校へいっていたとか、ミッションスクールに通っていたとか、好意的な反応が意外と多くある。教会へお招きすると、自分は教会に相応しくないと心から思っておられる人も少なくない。

教会の外の人々の思い対して、教会の内にいる私たちはどうだろうか。主イエスの十字架の贖いによって、主イエスの執り成しの祈りがあって、やっと、神様の前に出ることができるのに、自分一人で、堂々と神様の前に立てるような錯覚に陥っていないだろうか。

先週も引用しましたように、主イエスは、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マタイ9:13)とはっきり教えている。教会は助けを必要としている人々の集まり、総合病院でもある。

教会は先週のアナニヤとサフィラのような人も居て良い所である。主イエスの教会は、病人の集まり、弱い人の集まり、助けを必要としている人の集まりである。最初から、いろいろな問題を含んでいた。教会が正しい人だけの集まりと考えるならば、それこそ異常である。

5章では、アナニヤとサフィラの偽善の問題があり、6章では、ギリシャ語の話すユダヤ人とヘブライ語を話すユダヤ人の対立もあった。また、コリントの手紙に書かれていますように、コリントの教会には、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロにつく」「わたしはケファ(ペトロ)に」「わたしはキリストに」と派閥的に分かれていた。弱い人間は、教会の中でも、無意識に、相応しい人と相応しくない人に分けてしまう。人が集まるところでは例外なく、区別があり差別があり、好き嫌いがある。

いろいろな問題を含みながら歩み出した主イエスの教会ですが、使徒たちが一番大切にしたことは、「神の言葉を大切にすること」(2)、「祈りと御言葉の奉仕」を大切にすることであった(4)。祈りと御言葉への奉仕を最優先するところが、主イエスの教会である。

キリスト者とは主イエスをキリストと信じ告白した人のことである。自分の知恵と経験で考える前に、「聖書の御言葉に、祈りを持って聴く人」が一人でも、二人でもいるところが主イエスの教会である。

初代教会の弟子たちのように、一人一人が家庭で、教会で、学校や職場で、キリスト者の代表者として、「祈りと御言葉の奉仕する人」でありたいと思う。初代教会は12弟子が「祈りと御言葉の奉仕」に専念し、次から次に起こってくる教会の問題を解決するために、7人の人が選出された。選出の基準としたのは、その人の地位でも、学歴でも、財力でもなかった。教会が主イエスの教会であり続けるために大切にすべきことは何か。初代教会は「霊と知恵に満ちた評判の良い人」(3)を選びました。

ステファノはキリスト教会の最初の殉教者である。迫害を受けているステファノを傍観者のように見つめていたキリスト者もいたことでしょう。誰一人「やめて下さい」とは叫べない。私たち人間は実に弱い。主イエスの十字架にも沈黙した。ステファノの殉教にも沈黙した。戦争中も沈黙した。そして、今も沈黙することが生きる知恵となっている。私たちはステファノのように強くなれなくても、ステファノの様な人のために、神様の助けを祈る人でありたい。

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