2011年5月15日の説教要旨

「気づかない罪」

ホセア書12:1-9、ヨハネ黙示録3:14-22

ラオディキアの町は、60年の大地震で壊滅状態になった町を独力で町の復興させる程、毛織物や医薬等で裕福な町であった。

人間的に、憧れの町、誇りである町も、神様の側から見れば、「あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない」(黙示録3:17)と批判される町であった。私たちの目に、神様から祝福されているように見える豊かさも、神様の側から見ると、「惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者」でしかないということもある。

豊かであることは不信仰を意味しません。しかし、豊かになることによって、大切なものを忘れる危険性がある。全てを自分の経験、知恵、財力で解決してしまう。即ち、自分の生活から神様を締め出してしまう危険性がある。それが不信仰であることに気付かなくなってしまう。祈りを忘れるつみである。

神様を締め出した生活は、「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい」(黙示録3:15)となる。それが悪魔の誘惑、誘惑に落ちた姿である。

繁華街ではぐれないように必死でお母さんの服をつかんでいる子どものように、信仰には、主イエスとはぐれないで、どこまでも一緒に歩む必死さが必要である。

祈りを忘れた生活は自分の経験と知恵に頼っている生活であって、神様を必要としない生活、神様を締め出した生活である。締め出された主イエスは皆さんの心のドアーをたたいておられる。「 見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」(黙示録3:20)。私たちの人生で、欠かせてはならないのは、「神様をお入りください。そして、赦し、憐み、助けてください」と神様を、御言葉を心に迎え入れることである。

主イエスのお招きに応えて、私たちは今ここにいる。そして、主イエスが求められていることは、「 熱くも冷たくもなく、なまぬるい生き方」ではなく、「私は主イエスと共に生きる」という熱きもの、情熱、積極さを求められている。

ラオディキヤの町も教会も物質的には豊かであり、お金儲けには熱心であったかもしれないが、信仰的には、一人一人が、「我キリストと共に生きる」という決断をしないで、人に合わせるなまぬるい生活をしていた。なまぬるい信仰生活では、見えないものがある。自分の不信仰に、罪に気づくことがない。信仰的な決断して気づくことは、「私は不信仰者である」ということである。何かの信仰的決断をしてみてください。

毎朝、5分間聖書を読もう、5分間その聖書の御言葉について瞑想しよう、5分間祈ろう。たった、15分です。決心して自分の信仰に気づく。決断しない信仰は、自分の信仰の敗れに気づかないから、いつまでも自分の信仰を自慢し、誇り、傲慢になってしまう。

私たちの信仰は、主イエスを、御言葉を締め出していないだろうか。自分の知恵と経験に頼り切っていないだろうか。一昔までは、多くの家には「客間」があった。いまは、そんな余裕もなく、合理化されている。信仰者は心の中に、主イエスをお迎えする客間を持っていなければならない。毎朝、御言葉を心に迎え入れる物が信仰生活である。

ホセアは、12:7 「神のもとに立ち帰れ。愛と正義を保ち、常にあなたの神を待ち望め」と教えている。神様のもとに帰るとは、御言葉に聴くことである。愛と正義を保つとは、御言葉に従うことである。神を待ち望むとは、十字架を前に主イエスが祈られたように、「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」(マルコ14:36)と、自分の願いではなく、神様の御心を求めて、「時」を待つことである。

なまぬるい信仰を続けるのではなく、信仰的な決断をしましょう。そして、今まで気づかなかった不信仰に気づきましょう。「私はなんと不信仰であったことよ」と気づくことが信仰である。「ごめんなさい」と祈れることが信仰である。朝でも夜でも、15分間、神様を迎え入れる決断をしょう。そして、自分の不信仰さに気づく信仰者となろう。

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