2012年9月2日の説教要旨

「和解の任務に向かう」

コリントの信徒への手紙二 5章1節〜21節

パウロは、この地上の生活を仮の住かであって、私たちには、天にある永遠の住かが備えられていると教えている。見えるものと見えないもの、一時的なものと永遠のものを対比させている。そして、見えないもの、永遠の世界を想起することの大切さを教えている。

この地上の生活には重荷があり、脱ぎ捨てたいと思うほどの苦悩がある。残念ながら毎年3万人を超える自殺者がいる。自殺したいと思うほど苦しんだことのある人は遥かに多いことでしょう。私たちの周りにも、自殺を選び取りたいと思うほどの苦悩が満ちている。

この地上の生活が全てであり、死で全てが終わりであるならば、人生で敗北を感じた人は死を選ばざるを得ない。しかし、信仰を持って生きる者は、この地上の80年〜90年は一瞬であり、その後の神様と共なる永遠の歩みがあると信じている。地上で全てを失って、天から与えられる住みかが備えられていることを信じている。

また、今年度、島之内教会が与えられている聖句は、「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神をアブラハムは信じた。」(ローマ4:17)です。私たちが信じている神様は、「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神」である。死んでもなお命を与え、有り得ないことを呼び出してくださる神様である。

信仰を持たない人には、現実の地上の生活への不満に満ちている。信仰を持って生きる我々も、同じように、現実の地上の生活の中で苦しみ悶えて生きており、不満を感じている。しかし、不満や不平以上に、待望していることは神様の約束である。私たちは、天上の神様の祝福に包まれ、永遠に朽ちない完全な生活を望み見ながら生きる。

ノアの箱舟の大洪水の後に、虹が出て神様の祝福の約束に包まれた。同じように、祝福の時のあることを望み見ることが信仰生活である。また、創世記1:1〜2に「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」と教えています。地上の生活は混沌、闇、空しさから解放されることはない。しかし、闇の中で苦悩して生きる私たちを見ていてくださる方がいる。それが神の霊が水の面を動いていたとの表現である。

インマヌエルなる神(マタイ1:23)、エル・ロイなる神(創世記16:13)がいつも私たちと共にいてくださり、見つめていてくださる。だから、「わたしたちはいつも心強い(6)。絶望の中で生きているが、絶望しない。不満や不安に満ちた中で生きているが、喜んでいる。それは、主イエスの十字架と復活によって、私たちに備えられている神様の祝福、永遠の命を見つめ、想起しているからである。

そのような生き方は、地上の見える世界でのみ生きている人々から見れば、正気でないように見える(13)。当然である。信仰に生きる者の願いは、「ひたすら主に喜ばれる者でありたい」(9)である。そのように出来るのは、自分の力ではなく、「キリストの愛が私たちを駆り立てているからです」(14)。裁かれ、死刑判決を受けて当然の私のために、神はその裁きを、独り子主イエスに負わせ、私を無罪とし、祝福を与え、復活の希望を与え、神様と共なる永遠の命を約束していてくださる神様の愛に支配されているからである。

主イエスの十字架と復活の目的について、「その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです」(15)と教えている。

毎年の自死者や「いじめによる自死」を教会は他人事のように受けとめていないだろうか。実は、教会が問われている問題である。教会が戦争に反対なのも、自死することに反対なのも、主イエスの十字架と復活の愛に迫られて、「あなたは生きる権利がある、生きるべきである、あなたが苦難の中であっても生きることを神様が願っておられる」等、「共に生きよう」とのメッセージを社会に語る使命を与えられている。

18節以下に、和解について教えている。和解とは、物々交換で同じ価値があると思うものを交換する言葉である。神様は、私と神様の独り子主イエスが同じ価値がある、否、私の命の方が価値ありと認めて下さっている。そんな「和解」は私たちの心で想像できない。一円玉と金の延べ棒を同じ価値とみなし、金の延べ棒を捨て、一円玉を大切に握りしめておられるのが主イエスの十字架と復活である。無価値のものを無限の価値あるもの以上と決めつけてくださった。主イエスの十字架と復活は、あり得ないこと、あってはならないことの実現である。それは驚きであり、奇蹟であり、信じられないことである。それが主イエスの福音である。

「神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです」(19)。教会の使命は、人の罪の責任を問うことではない。どんなに罪深い人がいても、その罪を問うことが教会の使命ではなく、あなたも生きることを許されていますとの和解のメッセージを語ることが教会の使命である。

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