2012年5月20日の説教要旨

「キリストの使徒として生きる」

コリントの信徒への手紙一 9章1〜13節

パウロは自由であるが、「食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません」(8:13)と語っている。与えられている「自由」を、神様の僕(しもべ)であることを忘れて、自分の好き勝手に、自由に使うことは、神様から与えられた自由の誤解です。自由を自分の好きなように生きることであると理解することは周りの人を悲しませ、傷つけ、つまずかせてしまいます。

人が神様と共に生き、神様に祝福される為には、自分を制御すること、我慢すること、忍耐することが大切です。アダムとエバは神様にエデンの園に住むようにされた時、神様は「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」(創世記1:16)と命じられました。死ぬとは、物理的に死ぬことではなく、神様との関係が切れて、神様の祝福の世界で、神様と共に生きることができなくなることを意味します。

神様は多くある木の中で一本の木の実を食べないように、触れないように命じられた。パウロは主イエスの僕、奴隷として、一つではなく、全てを主イエスに、神様に捧げた。自由が無いかのように、すべてを主イエスに捧げつくした。それでも、パウロは教会の人々の批判にさらされた。

パウロはコリントの教会の生みの親です。それでも批判にさらされ、教会を追い出されます。主な批判は、パウロは主イエスから直接任命された弟子ではない、使徒ではない、牧師ではないとの批判です。また、パウロはキリスト者を迫害していた敵であったとの批判です。ユダヤ人からは裏切り者として、あることないことを言いふらされました。それらの批判の中で、パウロにとって、コリントの教会の兄弟姉妹に言いたかったことは、あなた方だけは、私と使徒、牧師と認めてくれるでしょう、私が主イエスの使徒であることを証明する証拠はあなたがたでしょう、と訴えるように、期待をこめて語っています。

当時、すでに、今日の牧師職のように、教会の働き人の生活を支えていたのでしょう。パウロは批判に対して、他の使徒たちのように、食べたり、飲んだりする権利、妻を持つ権利、その他、使徒たちが持っていた権利をパウロも持つ権利のあることを主張します。「他の人たち(使徒)が、あなたがたに対するこの権利を持っているとすれば、わたしたちはなおさらそうではありませんか」(12)と使徒としての権利を語り、「主は、福音を宣べ伝える人たちには福音によって生活の資をえるようにと、指示されました」(14)と権利を語ります。

パウロは、7節から、使徒として、生活を支えてもらえる根拠を語ります。自費で戦争にいきますか、ぶどう畑を作ってぶどうの実を食べない人がいますか、羊の群れを飼ってその乳を飲まない人がいますか、等を次々に語って、福音宣教によって生活の糧を得る当然性を語ります。その上で、「わたしはこの権利を何一つ利用したことはありません。利用するくらいなら死んだ方がましです」(15)とさえ語ります。これはパウロに対する教会の強い批判にたいして、主イエスの使徒、僕(しもべ)としての意地でもある。主イエスに仕えている誇り、確信、意地であり、教会員への挑戦でもあります。

俗な言葉で言えば、私は自腹を切って、主イエスの福音を告げ知らせるとパウロは言いたいのです。教会には無報酬で、自腹を切ってでも、主イエスのために働く人が必要なのです。そのことに気付いて欲しいのです。人に合わせる信仰ではなく、私は、主イエス・キリストのために、何かをした誇り、満足が信仰には大切なのです。それが、信仰が生きているしるしです。

そのためには、マタイ6:5〜6の教えが必要不可欠です。「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」信仰の命の根は、密室での孤独な祈りである。

信仰は会議で決めるものではない。会議で決まりましたから、「して下さい」、とか、ここにお金がありますから、「これでして下さい」ということは、信仰が無くても出来ることです。

信仰は「私と神様」の関係です。人様が、賛成しようが、反対しようが、御言葉と祈りを通して示されたことに、「私が立つ」、「私から始める」、その強さが必要です。

島之内教会の創始者たちも、「私から始める」信仰者であった。明治11年(1878年)1月、荒木安吉さんと山口孝兵衛さんは今の大阪教会の礼拝に出て、感動した。その年度末には両家で家庭集会が開かれている。2年後には教会建築となり材木を購入している。島之内の大火で延期されるが3年後の明治14年には、商人の家で講義所を開き、4年後に木造の教会を建て、初代牧師上原方立先生を仮牧師として招聘している。島之内教会は会議から生まれていない。当時、会議で始まったのは、難波村伝道であった。同志社から有力な宣教師や牧師が応援に来たが、教会は誕生しなかった。信仰は会議から生まれるものではない。一人一人が信仰に燃えることである。

パウロも会議で教会を作ったのではなく、一人で、主イエスを信じ、全てをかけて教会を作った。残念ながら、教会が出来上がると、会議が重んじられる。多数決で物事が決まって行く。神様への信仰よりも、人間関係が教会を支配し、教会は命を失う。信仰より、組織を重視するごとにパウロは教会から追い出されてしまった。

だが、敗北して、パウロの信仰は強められていった。全てのことが許されている中で、パウロは徹底的に主イエスの僕(しもべ)、奴隷に徹した。自分の希望を実現させることではなく、一人でも多くの人に、「神様は、独り子イエスさまを十字架にかけてまで、あなたを愛しておられるのですよ」と神様の愛、福音をのべ伝え、自分が古びた雑巾のようになることが、神様に祝福される道であることにパウロは気付かされた。律法に支配されている人には、律法に支配されているようになった。弱い人には弱い人のように、何とかして何人かでも救うためです。福音のためにはどんなことでもする。

パウロのこの信仰に、自分の信仰を写して見れば、信仰が無いどころか、家族や隣人や知人を主イエスに近づけない役割しか果たしていない惨めな存在であることに気付かされる。無に等しい存在だけに留まらず、家族をはじめ多くの人を主イエスから引き離す惨めな存在である。

そんな惨めな私のために主イエスは死んでくださったこと、こんな私を愛していて下さる主イエスに感謝し、褒めたたえ、新たに主の僕らしく生き始めましょう。

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