2011年3月20日の説教要旨

「御言葉を信じる」

列王記上17:1〜7、マルコ福音書10:46〜52

マルコ10章の記事は、バルティマイが主イエスから「あなたの信仰があなたを救った」と褒められている。主イエスからほめられたバルティマイの信仰とはいったいどのようなものであったのでしょうか。

聖書を見ますと、バルティマイは道端で座って物乞いをしている盲人でした。そして、ナザレのイエスだと聞くと、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫びました。多くの人々がバルティマイを叱り、黙らせようとしたが、 バルティマイはますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。バルティマイのしたことは、主イエスに叫び続けただけです。信仰とは「叫ぶ」ことなのです。信仰は、何も難しいことを必要としないのです。「主イエスよ、私を憐れんで下さい」と何度も何度も祈ること、叫ぶことなのです。

「主イエスに褒められている人々」について学んだことがありますが、マタイ15:21以下でも、カナンの女性もその信仰を褒められています。彼女は、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び、拒否されると、「主よ、ごもっともです。しかし、子犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」と答えました。相応しくない自分を認めること、そして、それでも、私を、私の家族を憐れんで下さい」と祈り続けることが信仰です。人に愚痴を言ったり、人に助けを求めたり、人の同情を求めたりすることではない。神様に、救い主イエスの名によって、主イエスに向かって祈り叫ぶことが信仰です。祈りの継続が信仰です。

バルティマイの周りの人々、弟子たちはや多くの人々がバルティマイを叱り、黙らせようとした。彼等は、大切な御用をされている主イエスに迷惑をかけてはいけないと思ったのでしょう。その弟子たちに、主イエスは、バルティマイを「呼んで来い」と言われた。それは主イエスに迷惑をかけてはいけないと確信していた弟子たちに、それは間違っているよとの教えです。

信仰とは、相応しくなくても、祈り叫ぶことです。また、信仰とは、神様に、主イエスに迷惑をかけることなのです。マルコ10:13以下で、主イエスのところへ、子供を連れてきた人を弟子たちは「迷惑をかけてはいけない」と思って、叱りました。それに対して、主イエスは弟子たちを見て、憤った。信仰は叫ぶことであり、迷惑をかけることなのです。

それは、牧師に対しても同じです。

東日本の大地震、巨大津波には、ただただ、茫然と見つめるだけです。ああしてほしい、こうしてほしい、の祈りの空しさを覚えます。信仰の原点である、「主イエスよ、ただただ、憐れんで下さい」とお祈りするだけです。

列王記上17:1〜7の記事は、預言者エリヤが神様に命じられて、アハブ王の罪を指摘したために、命を狙われ、逃げなければならなくなりました。悪いのはアハブ王ですから、神様はアハブ王を退け、エリヤが残るべきです。それは人間的な常識です。しかし、事実は反対です。人間の歴史では、しばしば、正しい者は去り、悪い人が残ります。それは、主イエスの十字架も同じです。

エリヤはヨルダンの東のケリトへ身を隠すように、神様から命じられます。そして、主なる神様は「わたしは烏に命じて、そこであなたを養わせるといわれました。また、死を前にしたやもめに、「あなたを養わせる」と言われました。神様の御用をして、命を狙われているのだから、地方の大地主や領主が、あなたをかくまってくれるように、手はずしてあると言われるならば、まだ納得できます。「烏や死を前にしたやもめが、あなたを養ってくれると言われて、信じて行けるでしょうか。

大切なことは、地方の領主を信じるか、烏ややもめを信じるかではないのです。「烏に命じて、お前を養わせる」と仰る神様の御言葉を信じるかどうかが、私たちもいつも問われているのです。エリヤは「烏なら安心だ」と従ったのではない。烏であれ、蛇であれ、メダカであれ、蟻であれ、なんでもいいのです。神様が「お前を養わせる」との御言葉を信じて、荒れ野へ出て行ったのです。エリヤが神様から、ケリトの川のほとりに身を隠せ。私が烏に命じて、そこであなたを養わせる」と命じられた時、エリヤは「直ちに行動した」(5)。

神様の御用をしているのに、なぜ、命を狙われるのかと自分の知恵と経験で考えたら、神様の御言葉よりも、烏ややもめの存在が大きくなり、烏ややもめ、なんかに養えるはずがないと思えてくて、従えなくなるのです。

創世記2:16で神様はアダムに「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない」と命じられます。エダムは神様の御言葉を守りました。ところが、3:1以下で、蛇が出てきて、「園のどの木からも食べてはいけない、などと神はいわれたのか」と尋ねると、女は3:2、「「園の木の果実を食べてもよいのです。せも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました」と答えました。蛇は、「決して死ぬシヌコテャニことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神がご存じなのだ」と言います、女は見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるようにそそのかした。考えたら負けてします。本当かなと疑うとサタンの思うつぼにはまる。

やもめは、ひと握りの小麦粉と僅かな油で最後の食事をして死のうとしていた。そのやもめに、エリヤは。その前に、私のために、小さいパン菓子を作って、持ってこいと命じます。これが信仰です。最後の僅かな一口の食べ物であっても、先ず、神様の所へ差し出すことが信仰です。その時、壺の粉名は尽きることなく、かめの油もなくならなかった。

東日本の被災に遭われた、小さな教会は、神様への「祈り」以外になにも無くなったことでしょう。この苦悩の中で、捧げられる「祈り」こそ、日本の教会の希望となることを信じています。

マルコ11:1以下で、主イエスは2人の弟子に、「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない事なない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい」とい命じます。向こうの村とはどこなのか、どのロバなのか、勝手に連れてきたら泥棒にされるなど、尋ねたいこと、確認したいことがあって等正したいこと当然です。しかし、何も確認もせず、2人は出かけます。人間の判断をまったく加えていない。御言葉をそのまま受け入れ従っている。すると、主イエスの御言葉通りであった。信仰とは、疑わないで信じることです。

信仰とは叫びです。信仰とは主なる神様に向かっての祈りです。信仰と御言葉を信じきることです。人や烏を信じることは信仰ではない。御言葉をその通り受け入れることが信仰です。

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