2012年3月25日の説教要旨

「忠実な僕に徹して生きる」

コリントの信徒への手紙一 4章1節〜21節

私たちが主イエスを救い主と信じる信仰を与えられているのは、私たちの努力や難行苦行を経て、合格して信仰者になったわけではありません。

第一コリント1:27〜29 で、「神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。」と教えています。

人の信仰について、正しいとか、間違っているとか、だれもが言いたいことは一杯あります。忘れてはならないことは、神様は、あえて、無学な者、無力な者、無に等しい者、身分の卑しい者、見下げられている者を選ばれ事実を忘れないことです。主イエスの教会で、善悪が大きな問題となりますと、主イエスの教えから離れてしまうのです。

教会が、人の信仰を、また、態度を批判することに関心を払いますと、その人の信仰も教会の信仰も、飛行機が方向舵を失ったように正しく進めません。教会が正しく歩めるためには、パウロが4節でかたっているように、「わたしたちを裁くのは主なのです。」

そんなことをしていると、教会は無茶苦茶になってしまう。だから、教会の規則で、違反している人は、除名すべきだとの考えが、大きくなってきています。それは、組織を守る手段であっても、信仰を守る手段ではないのです。

パウロは善・悪に関心はありませんでした。パウロの関心は「人はわたしたちをキリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者と考えるべきです。この場合、管理者に要求されるのは忠実であることです」(1)です。

忠実は信仰と同じ言葉です。パウロは信仰を強制することが不可能であることを身にしみて痛感しています。信仰とは、一人一人が神様に忠実に生きる信仰であると語っているのです。あなたの主イエスへの忠実な信仰は何ですか、考えて下さいと問いかけているのです。

忠実な信仰とは、決して立派なことではない。むしろ他人からみればあまり意味がないようなことが多い。西原勇牧師のこだわりは「モーニングを着て礼拝に出席する事であった。また、ある人は、主日の礼拝にために体調を整えておられる人もいた、また、ある人は、主日の朝、必ず朝にお風呂に入って来る人もいた。献金で新札が無ければアイロンをかけておられた。それを小さくおらねばならないことに痛みを感じておられた。高齢になって、毎朝、大きな声で聖書の一章を読んでおられる人もいる。実に些細なことであるが、この小さなことに忠実である信仰が大切なのです。

主イエスはルカ16:10「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である」と教えています。また、ルカ19:17「良い僕だ。よくやった。お前はごく小さな事に忠実だったから、十の町の支配権を授けよう。」と例えで語っておられます。

パウロは「あなたをほかの者たちよりも、優れた者としたのは、だれです。いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか」(7)と迫ります。他人の信仰を問題にするよりも、主なる神様に感謝することではないのですか、と問い掛けているのです。」生かされている感謝、家族への感謝、信仰を与えられていることへの感謝等が忘れていますよと語っているのです。

忠実な信仰を忘れた教会で何が起こるのか、パウロの体験から語ります、「愚か者と賢い者」に分けられる、「弱い者と強い者」に分けられる、「尊敬される者と侮辱される者」に分けられる。そのような中で、パウロは、飢え、渇き、着る物がなく、虐待され、身を寄せるところもなく、苦労した。それでも、侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられては優しい言葉返しています。今に至るまで、わたしたちは世の屑、すべてのものの滓とされています。

神様は、あえて、無学な者、無力な者、無に等しい者、身分の卑しい者、見下げられている者を選ばれました。この事実を忘れて人を善人と悪人に分けしまいますと、忠実な信仰者が傷つき倒れて行く現実を忘れてはならないのでしょう。

また、14節以下で、キリストに導く養育係があなたがたに一万人いたとしても、父が大勢いるわけではない。」と語ります。教会に信仰の友が一万人いても、あなたが忠実に仕えるべき方は一人ですよ、と語っているのです。

コリント教会は経済的には豊かで、主だった人々は自分たちは、コリント教会は今のままで満足であり、欠けているものがあるとは思っていなかった。

パウロは自分の手紙で語るだけではだめなので、パウロは最も信頼していたテモテをコリントに送ります。コリントの教会が言葉だけの信仰から、キリストに結ばれた信仰に生きる方法を教えるためでした。忠実な信仰とは言葉だけの信仰ではなく、生活の中で生きている信仰です。忠実な信仰は礼拝の時間ではなく、礼拝の始まる前、礼拝が終わった後の言動に現れるのです。また、礼拝だけに教会信仰ではなく、月曜日〜土曜日の日常の信仰生活において、些細なことで主の僕に生きる信仰が、コリント教会、また、島之内教会に根付いて生きることをパウロは執り成していて下さるのです。朝起きた時のひと言が、「神様、おはようございます。お守り下さい」である生き方が求められているのです。仏教徒が朝夕に仏壇に手を合わせるように、神道の人が神棚に朝夕に手を合わせるように、彼ら以上に、主イエスへの小さな忠実な信仰が、生き方が求められているのです。

このページのトップへ戻る