2012年6月24日の説教要旨

「キリストの体を形成する」

コリントの信徒への手紙一 12章1節〜31節

12章は「霊的な賜物」についてです。パウロは、神様からの賜物については、「 賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です」(4)と教え、「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である」(12)と教えています。賜物を見るのか、賜物をお与えになる神様を見るのかで大きく違ってきます。信仰とは、神様を見上げることですよ、本当に神様を見つめていますか、人を見ていませんかと私たちに問うているのです。

コリント教会の人々は、賜物を与えていて下さる神様を見つめることを忘れて、人を見ていたのでしょう。自分の賜物と違う賜物を持っている人を見て羨んだり、批判したりしていたのでしょう。人様を批判する時、多くの場合、批判する欠点をその人が持っているか、羨んでいると思って間違いありません。

神様を見上げて生きることを忘れて、賜物を競い、人の賜物を羨ましく思ってひがみ心を持って、批判し合っているコリントの教会に対して、また、私たちに対して、パウロが突きつけている厳しい問い掛けは、あなたがたは、神様から霊の賜物を受けていますか、受けているならば、あなたの口から出てくることは、ただ一つでしょう。「イエスは主である」(3)との告白であり、その主イエスがお与えになっている、さまざまな賜物を批判することはあり得ないでしょう、と語っているのです。賜物の違いは、「一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです」(7)と教えています。言葉を変えれば、教会に人様への批判があることは、「何をするにしても、すべて神の栄光を現わすためにしなさい」(10:31)とのパウロの教えに従った教会ではなく、自分の栄光を現わす教会でしかなかったのです。

また、パウロは、体と部分を例えに教えています。「神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です(24〜27)。

マタイ20章の「ぶどう園の労働者」のたとえのように、夜明けから夕方6時まで働いた人、9時から働いた人、12時から働いた人、3時から働いた人、5時からたった1時間しか働かなかった人がいた。彼らが賃金を受け取る時、どうでしたか。5時からの人から始まり最後は夜明けから働いた人です。それも同じ賃金でした。夜明けから働いた人と、1時間しか働かなかったが同じ賃金は、誰が見ても不平等であり、非難したくなるのは当然です。しかし、それは人を見ているのであって、神様を見ていない。神様の愛は変わることが無いのです。同じ賃金を頂けるのならば、夜明けから働かなくてもいいんだ、あの貧しい人が、100円の献金で祝福されるならば、自分も頑張る必要はない、100円にしておこうとなる。それが、神様を見上げることを忘れた姿に気付かない。

それは、日本の教会の遺伝子です。明治時代は、教会へ行ってハイカラさんになりたい、戦後はアメリカさんになりたいことが中心で、聖書の御言葉と向き合う伝統が育たなかった。

芸能人の親が生活保護を受けていたことが社会問題になりました。もらえるものならもらっておこうとの思いは誰の心にもあります。それを批判することは教会のすることではない。

教会は、私は神様の恩寵、恵み、愛に応えているだろうか、赦されている喜び、生かされている感謝をもっているだろうか、国の生活保護は受け取っていないが、神様からの生活保護に甘え切って生きていないだろうかと、「人の振り見て我が振り直す」心が教会に、私たちに必要です。パウロは、賜物の差、貧富の差、才能の差、あらゆる差別、区別を認めている。ただ、人を見つめないで、神様を見つめ、神様の御心に沿って、それぞれ生きて欲しいと、私たちに語りかけ、願っているのです。

いつも言いますように、神様を見上げて、聖書の御言葉に真剣に生きれば、人に要求する平等は神様の前では不平等であることに気付かされます。教会は、頂くものは不平等で良い、ただし、差し上げるものは平等でなければならない。その主イエス・キリストの十字架と復活によって与えられている恵みに甘えている体質が日本の教会にある。

パウロはコリントの教会の人々に、また、私たちに教えていることは、人の批判をしている暇があれば、「あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい」(31)。「イエスは主である」告白を明確にし、神の栄光を現わすために働きなさいと教えているのです。人と向き合っている教会の姿は、人の批判で満ち溢れる。人間の社交場になってしまう。

しかし、「イエスは主である」告白を明確にし、神様、それも十字架の主イエスと向き合っておれば、あなたが変わる、教会が変わる。キリストの体を形成する教会に変わることをパウロは願っているのです。

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