2012年7月1日の説教要旨

「いつまでも残るものは信仰・希望・愛」

コリントの信徒への手紙一 12章1節〜31節

アメリカでは、毎年約3万5千人の人が銃で殺されている。それでも、「悪いのは銃ではない、悪いのは銃を用いる人間である」との主張が強くあるから、銃の規制がすすまない。

それは人間の生活すべてのも言えることです。信仰も同じです。信仰も何と結びつくか、誰に用いられるかによって、人に希望を与えたり、人に絶望を与えたりします。信仰が物のように、誰が持っても、誰が伝えても同じであれば、悩むことはない。しかし、信仰は私たちの体を通り、私の人格、性格、好みなどと結びついて、包まれて、屈折して伝えられていく。

誰が主イエスを伝えるかによって、受け取る側の「主イエスのイメージ」が大きく変わる。学校でも、教科書は同じですから、教える内容はあまり変わりません。しかし、生徒にとって好きな先生であれば学ぶ意欲が起こる。だが、嫌いな先生であれば、その教科さえ嫌いになったりする。「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」という言葉があるように、私たちの態度、生き方、言動によって、私の信用が無くなるのではなく、主イエスへの信頼、信仰が無くしてしまう現実を忘れてはならない。家族や友は、私たちの生き方を見て、教会好き人間にもなるし、教会嫌い人間にもなり得る。私の生き方、言動が家族への伝道を妨げ、主イエスへ導くどころか、妨げ、障害物になっている現実を忘れてはならない。

パウロは、主イエスを、それも、十字架の主イエス・キリストを宣べ伝えた。パウロの伝道は、種を蒔いたと思って振り向いたら、カラスんいその種をみんな食べられているような空しさを覚える伝道であった。それも、教会の中の人々によって、蒔いた種が捨てられる現実であったから、どんなに失望したことでしょう。自分が導いた人々から失望しか与えられない中で、パウロは必死で主イエスを見上げて生きた。

その苦悩の中で、パウロは示され、気づかされ、たどり着言いたことがあった。それをパウロは、「最高の道を教えます」と語りかけている、今朝の御言葉です。人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、それは騒がしい雑音である。預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。無に等しいとは、かえってじゃまなのです。

主イエス・キリストの十字架と復活の愛から目をそらしてはいけません。この一点を見つめて行動しなさいとの教えです。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。そして、「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」と教えている。

子どもたちにとって、大人や親の立派な教えも、騒音、雑音でしかない時もある。人を正してあげようとする善意も、聞く者にとっては、うるさい騒音でしかないことが多い。なぜか、パウロは、私たちの語る信仰の言葉に「愛」がないからだと教えているのです。愛とは、私のような者でも、生かされている、許されていると、主イエス・キリストの十字架と復活を思い浮かべ、神様への感謝の心です。  

コリントの町は、大地震が起こっても自力で復興させる豊かな町でした。慈善的なことにも熱心であった。それらを誇りにしていた。どんなに立派なことをしても、神様への感謝の心を失っていたところにコリントの教会の根本的な問題、欠けがあった。

「私」への神様の赦しと愛に感謝する心が無いままに、教会を形成していたコリントの教会にはグループに分かれ、傲慢になり、一部の人が威張り、人が支配する教会であった。神様を見上げたり、御言葉に聴従することよりも、人の声に聞き従う教会になっていた。神様の前にひざまずいての祈りや御言葉に聴従するよりも、教会の人々、特に強い人との調和を重んじていた。それがコリントの教会であり、現在の教会の姿です。

そして、4節以下のように、教会には、忍耐強さ、情け深さが生きていなかった。あるのは、ねたみであり、自慢であり、高ぶりであり、人の批判、悪口であった。また、 礼を失することばかりしていた。すなわち、教会で弱い者、自分たちの尺度に合わない人を見下し、仲間外れにしていた。また、自分の利益ばかりを求め、人を従わせようとしていた。そして、従わなかったり、反対すると、いらだち、恨みを抱いていた。 不義を喜び、真実を喜ばなかった。 忍耐できず、御言葉を信じることなく、不平、不満に満ちていた。

そして、パウロは厳しく教えます。あなたがたの望んでいるすべてのこと、あなたが大切にしているすべてのことは、廃(すた)れてしまいますよ。人間に欠くことの出来ない大切なもの、変わらない大切なことは、愛ですよ。愛とは、神様が私たちに示して下さった、主イエス・キリストの十字架の贖い、赦し、感謝に生きることなのですよ、と教えているのです。

教会の歴史と共に、主イエスの教えは、人間の知恵と経験という「ほこり」に覆い隠されてきた。今こそ、心新たに、教会の伝統に縛られることなく、聖書の御言葉に聴きつつ、神様の導きを祈りつつ、積もり積もったほこりを取り除きましょう。その時、私たちの内に輝く主イエスの救いが、家族に、人々に見え、証となる。私たちの言葉が主イエス・キリストを証するのではない。主イエス・キリストへの感謝の応答という愛、祈りが信仰を証するのです。

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