2010年5月23日の説教要旨

「聖霊に逆らわず」

使徒言行録 7章

ステファノの説教の結論は、「いつも聖霊に逆らっています」(51)との指摘である。

アブラハムから始まり、ヨセフ、モーセ、アロン、ダビデ、ソロモンについて語っている。ステファノの語る言葉の「主語」はステファノではなく、常に「神様」である。ステファノは、アブラハムやヨセフやモーセについて語っているのではない。アブラハムの偉大さ、立派さを語りたいのではない。ステファノはアブラハムやヨセフやモーセを選び、愛し、祝福し、用い、導かれた主なる神様を褒めたたえている。普通の人が、神様に選ばれ、用いられ、聖霊を注がれることによって、神様の栄光の器に変えられている現実を語っている。

私たちはどうでしょうか。「神様が聖書を通して、私にこのように語られた」というような会話があるでしょうか。私はこんなにしているのに、あの人は何もしない。Aさんがあなたのことを、このように言っていたよ。Bさんが怒っていたよ。私たちの語る言葉の主語は殆んど、主語が「私」になっている。それは「聖霊」の導きを求めることを忘れている姿である。

ステファノの願いは、自分の人生が神様の御手に握られて歩むことであった。神様の御心と共に歩むことに最大の価値を見ていた。それは、神様に喜ばれることを考えることではなく、議論することでもない。神様に聞くこと、神様に祈ることである。そして、聖書と祈りを通して、神様が私に望んでおられることを聴くことである。私が「主語」の生き方から、神様が「主語」になる生き方に変わることが信仰に生きることである。「私」が主語である時、「私」が中心になる時は、いつもその生活は聖霊に逆らっている。聖霊を心に迎え入れることを歓迎していない。

モーセも最初は、虐待されているイスラエルの同胞を「私」が助けようとしたが失敗した。40年後に、自分はそんな器ではないと断りますが、神様があえて、モーセを用いられた。 信仰を自分の夢の実現の手段、道具のように考える人も少なくない。信仰とは正しく生きることではなく、神様に用いられることである。

ステファノはキリスト教会の最初の殉教者です。「人々のはげしい怒りの中にありながら、また、石を投げつけられながらも、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見ておられた」。恐怖の中でステファノは、天を見上げ、主イエスを見つめていました。そして、人々が石を投げ続けている間、すなわち、死ぬまで、ステファノは「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」(54以下)と大声で叫び、そして殉教した。

主イエスのために全てを捧げる人が求められている。それは、命を捧げよとの命令ではない。一日に15分を神様に捧げる人が求められている。讃美歌を歌う、聖書に聞き(読む)、瞑想し、祈る。この簡単な、単純なことが出来ている人が何人いるでしょうか。「主よ、御心のままに私を用いて下さい」と心のドアーを開く人が一人おれば、その教会に希望が生まれる。聖霊に導かれる人、主イエスのみを見つめて生きる人、自分を正当化しない人、言い訳をしない人、人を責めない人、人の失敗を背後でそっとカバーする人、敵のために祝福を祈れる人、このような人が生まれる。

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