2012年2月26日の説教要旨

「神の賜物は欠けず」

コリントの信徒への手紙一 1章1節〜17節

コリントの町は、当時はギリシャ経済の中心であった。商業が活発になると富が集まり、人が集まり、快楽の町となることは当然であった。コリントが不品行の代名詞になる程であった。

パウロは、この快楽で腐敗したコリントの町の人々を悔い改めさせようと意気揚々と伝道に来たのではありません。その時のことについて「そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、怖れに取りつかれ、ひどく不安でした」(第一コリント2:3)と告白している。アテネ伝道に失敗したパウロは、快楽の町コリントへ逃げるようにやって来た。そこで人々を見ていると失望し、絶望した。だから、神様を見上げる祈りの生活をせざるを得なかった。

怖れと不安は生きている誰もが持っている。夜遅くかかってくる電話相談の人も、心の不安を誰かに共有してほしいのでしょう。自殺をにおわせるからなかなか切れない。3・11の東日本大震災を思うと、誰もが、安心はどこにもないと思わされ、不安になってくる。しかし、信仰を持って生きいる私たちにとって、この人生がどんな不安や怖れがあっても、最後は神様のお委ねすることが出来ることは誠に幸いである。不安で眠れない時も、薬に頼らなくても、「神様、・・・」と祈ることが出来ることは最高の幸せだと思う。また、親子で、兄弟で、夫婦で、信仰の友と祈り、祈られることは幸いであり、恵みである。恐れや不安がなくなることはない。しかし、その恐れも不安も神様の支配下に置かれていることを忘れてはならない。

聖書の最初に「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」(創世記1:1〜2)と書かれている。
神様は私たちに、「お前の生きる世界は混沌で、空しく、不安と恐れが満ちているよ。しかし、その空しさの中で生きるお前を、神の霊が取り囲み、夜回りのように見守っていますよ」と創世記を通して、神様は語っていてくださる。

さて、コリントの手紙を見ますと、パウロはコリントの教会の人々に、先ず挨拶で、キリスト者とはどのような人であるか、キリスト者のあるべき姿を語ります。「神様から召された者」、「キリスト・イエスによって聖なる者とされた者」、「イエス・キリストが主である」と認めた者と強調します。言葉を変えれば、私はイエス・キリストの僕(しもべ)ですと、告白できることがキリスト者である。

教会は、神様に召された聖なる者の集まりである。この言葉に私たちは戸惑いを覚える。召されるにふさわしいものが何一つあるわけではない。しかし、召されたからには、召して下さった方の期待に応える努力が必要です。その努力が信仰生活です。主イエスの復活の礼拝を守るのも、聖書の神様の御言葉を聴くのも、聖なる者にふさわしく生きることが出来るように、主の助けを祈り求めるのも、召されたキリスト者にふさわしくなるための必修です。

神様に召された者の生き方は、神様が主人で私に命じ、私は忠実に聞き従う人に変わることが信仰です。このように、9節まではキリスト者としてのあるべき姿をパウロは語ります。

そして、次に、10節以下では、コリントの教会の現実を語ります。神様が召され、聖なる者とされる以前と何も変わっていない惨めな現実を直視させます。信仰以前の生活は、「私」が主人で、私が命じる人であった。皆、勝手なことを言い、仲たがいをしていた、お互いの心がばらならで、一つにならず、結び合っていなかった。争いがあった。パウロ派、アポロ派、ケファ派、キリスト派に分かれていた。キリストをパウロやアポロやケファと並立していたコリントの教会は信仰の基本が理解できていなかったのでしょう。キリスト者になる以前とキリスト者になってからの違いは、服の色を変えただけで、中味は古いままだったのです。

教会は「主イエスの教会」ですが、時々、無意識に「私の教会」と言うことがある。これは小さなことのようだが、実は大きな大切なことを忘れている。主イエスの教会の私物化が起こっている。だから、礼拝を休んでも、聖書を開かなくても、祈らなくても、神様に申し訳ないとの思いが無くなる。「私の教会」とは神様を追放し、人が神になるという大きな過ちの姿です。教会は、主イエス・キリストの名を呼び求める集りです。

春になると、冬物と春物に入れ替え時です。私たちの心も「私のもの」を取り出して、新しい決心で「神様」を迎え入れましょう。御言葉で心を満たしましょう。神様の賜物には私たちの人生で必要な物は全て備えられ、欠けることがないと約束していてくださいます。

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