2010年6月6日の説教要旨

「祈られたパウロ」

使徒言行録 9章

パウロはキリスト者を迫害し、撲滅することが神様の御心に適うことであり、祝福されることであると確信していた。熱心であればよいのではない。主イエスも「あなたの神殿に対する熱情がわたしを食いつくしている」(詩編69:10)と詩編を引用されて教えている。昔も今も、私たちの熱心さが神様を食い尽くす危険性を含んでいる。

私たちの知恵と経験で考える確信が実はとんでもない間違い、不正、不義であることもある。パウロはユダヤ人の中のユダヤ人であり、エリート中のエリートでした。しかし、どんなに知識があり、知恵があり、能力があっても、それで神様の御用が出来るわけではない。教会にとって大切なことは人間的な知識、知恵、能力だけではない。パウロは神様から(4)「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と名前を呼ばれた。そして(8)「目が見えなくなった」。そして、キリスト者アナニヤに祈られて、目が見えるようになった。そして、12弟子以上の大きな伝道の生涯を送られた。

考えて見れば、神様の選びは私たちにとって不思議に思えます。主イエスを信じていたステファノが殺され、キリスト者を迫害していたパウロが選ばれている。 神様それは反対でしょう。目を開いてよく見てください。パウロを滅ぼし、ステファノを祝して用いられるべきではありませんかと抗議したくなる。この納得できないことを受け入れるためには、心を静めて、祈る時が不可欠である。そして、主イエスが十字架を前に、「この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」との祈りが不可欠です。

神様から呼び出され、アナニヤの執り成しの祈りによって、パウロは迫害者からキリスト・イエスの伝道者へと180度の転換をさせられた。この経験をパウロはローマ章5章で「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった」(6)。「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」(8)。「敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいた」(10)と語っている。

主イエスはマタイ福音書18章1〜5で、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と問うた時、主イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」と教えておられる。天国とは死後の世界ではない。人間の正しいあり方、生き方を意味する。パウロを選ばれた神様の姿、子どもを真ん中に置くことを求められる主イエスの姿、生き方から、今、私たちは何を大切にすべきだろうか。

自分に利益をもたらさない人を真ん中に迎えることである。自分に利益を与えてくれる人を真ん中に迎えることは信仰が無くても、祈りが無くても出来る。しかし、利益をもたらしてくれない人を迎え入れることは信仰と祈りなくしては出来ない。祈りなくしてできない道を歩むことが信仰である。

教会の交わりは、強い者が弱い者から祈られることが成立するところである。迫害者が被迫害者から、教師が生徒から、親が子どもから祈られることが成立しているところが教会である。祈り合える交わりを深めていきたいものである。

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