2011年2月13日の説教要旨

「悔い改めて聴く」

イザヤ書6:1〜13、マタイ福音書13:10〜17

民に信頼され52年間も王であったウジヤ王が帰天した。預言者イザヤも神様の導きを祈り求めていた。同時に、国がとのようになるのか不安と動揺を覚えていた。イザヤは、セラフィム(蛇の体。鳥の翼、人の顔と手足を持った天使)たちが、「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は。地をすべて覆う」と呼び交わしている幻を見た。天使たちの神様を賛美する声を聞いて、イザヤは自分自身を災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者だ(5)と告白している。天使たちの讃美を聞いて、イザヤは神様を信頼し、お委ねすることを忘れている自分の罪に気付かされた。ウジヤ王が死んだことによる、国の将来への心配で心が支配されていて、神様を忘れていた。イザヤは神様をほめたたえることを忘れている自分に気づいた。

教会がいつも関心を払わなければならないことは何か。神様が共にいて下さるかどうかである。主イエスが共にいて下さるかどうかである。教会に誰が居るから良い、誰がいないから悪いという考えは主イエスの教会に相応しくない。主イエスがおられるところが主イエスの教会であり、教会がいつも関心を払わなければならないことは主イエスが私や教会と共にいて下さるかどうかである。

私たちも、目の前の出来事に振り回されることがある。しかし、困難な出来事も、不安な出来事も、すべてが神様の御手の中にあることを忘れてはならない。主イエス・キリストを通して約束されていることは、私たちの人生の最後は神様の祝福の港へ導かれていることを忘れてはならない。

イザヤは「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者」と告白した。すると、天使の一人が祭壇から燃えている炭をもってイザヤのところへ飛んできて、イザヤの口に火を触れさせ、「見よ、これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取りさられ、罪は赦された、お赦しください、助けて下さい」と告白して、赦されることである。

「町々が崩れ去って、住む者もなく、家々には人影もなく、大地が荒廃して崩れ去るときまで」(11)、最後の一人になっても、神様は私たちが悔い改めて、立ち帰るまで持っていて下さる。切り倒されても、切り株が残る(13)とありますように、教会は高齢化や少子化や若者がいないことに嘆く必要はない。主なる神様が切り株から新しい聖別した次の世代を育てて下さる。私たちに必要なことは、神様の前に、悔い改めの祈り、「ご免なさい、お赦しください、助けて下さい」と告白の祈りである。

私たちの心が、自分が正しいとの確信が詰まっていたら、神様の赦し、祝福を受けることが出来ない。「神様、ご免なさい、お赦しください。そして、私の心に、私の家庭に、私の教会にお入り下さい」と神様を受け入れる場所を明け渡すことが大切である。「罪の告白」である。

聖書は一貫して、私たちに求めておられることは、私たちの思い、言葉、行動を「ごめんなさい」と告白することである。悔改め、赦しの御言葉を聞くことである。神様から見れば、人間は、例外なく、何度聞いても理解せず、何度見ても悟らず、悔改めない強情な存在なのである。

しかし、神様は、聞かない強情な民を見捨てることをさない。あきらめることなく、私たちが悔改めて、立ち帰ることを待っていて下さる。

アモス3:12に書かれていますように、獅子に食べられた羊の後足が二本になっても、あるいは片耳だけになっても、羊を取り戻して下さるのが神様の愛である。

神様の愛は決して強制しません。主イエスの教えとファリサイ派の人々や律法学者の教えの根本的な違いは、人に強制するかしないかである。主イエスは決して強制されていません。待っていて下さいます。7の70倍までも、祈って待っていて下さいます。

今朝の新約聖書、マタイ13:9で主イエスは、「耳のある者は聞きなさい」と語っている。聞いても、聞かなくてもいいのですよ。聞く耳があれば、聞く気があれば聞きなさいと言われる。聞く自由も、聞かない自由も認めている。教会もこの自由を認めることが大切である。何事においても、思い通りになることもあれば、思い通りにならないこともある。腹の立つこと、むかつくこと、怒りを思えることもある。それらが無いことが良いのではない。水と油の違いがあることを認めることが人間には大切なことである。

イザヤのように、「もうおしまいだ、こんな罪深い、口の汚れた者は滅ぼされてしまう」と告白する時、神様は赦しと祝福を与え、清めて下さる。信仰とは、「ごめんなさい」との悔い改める心を持って、主よ、お語り下さいと祈る生活である。

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